2016.10.12 掲載
vol3
野村(刈屋)ひと美さん
vol3
福島県出身。2児の母。祖父母、父親など教師一家に生まれ育つ。大学卒業後は、ライター・編集者を経て、地域活性化コンサルタントに。2012年長岡市栃尾地域に移住。「色で選ぶ野草茶」の加工販売や古民家を改装した「おとなこども寺子屋Tochioto」の運営をしている。
すきなこと:冬の温泉、野菜中心のご飯、保存食作り。子どものころの夢:料理記者
前回はお寺での生活、そして移住先探しから新潟に至るまでのことを書きました。
今回は栃尾での仕事、生活について書きたいと思います。
タイトルの意味:幸福と不幸は表裏一体で、かわるがわる来るものだということのたとえ。
「年商30万円」
今から4年前、私たちの結婚を報告する食事会で、農家である夫は親族へ向けて、「これから自分たちはどう生きていきたいか」をプレゼンしていました。そしてプロジェクターから映し出された数字に、「これ、月商の間違いじゃない?」と誰しも首をかしげる不思議な空気が漂っていたのは懐かしい思い出です。(笑)
なんとなく察してはいましたが、夫は兄弟2人で農業を営み、しかも無農薬無化学肥料栽培。収穫量が少ない上に独自販路というやり方はなかなか最初からうまくいくものではありません。
ただ、その時の私は超ポジティブだったのと、研修生もいて人のリソースがたっぷりあったので「ここまで低かったら後は上がっていくだけだ」と思い、むしろこれからにワクワクしていました。
一口食べれば違いがわかる彼らの野菜は、栽培方法にもちゃんと一本筋の通ったストーリーと哲学があり、野菜自体の生命力が強い。だから長持ちもするし、味も濃くて凝った調理をしなくても美味しい。
仕事で忙しいからと、なんとなく後ろめたい気持ちで惣菜を買って、子どもに食べさせているようなお母さんたちにも知ってほしい、美味しい野菜で元気になってほしい。そんな気持ちになりました。そこには、かつての自分自身の生活を重ね合わせていたのかもしれません。
ただ、無農薬で固定種の野菜ともなれば、形が不揃いだったり味も均一でなく、しかも高い。普通に売り場に並べればスルーされても仕方がないと思います。
生産工程を伝えたい生産者の気持ちもわかります。でも買い手側の知識不足や意識低下を問う前に、もっと相手側の生活に寄り添って伝えられる言葉があるように思ったのです。
じゃ実際これを食べたらこんな良いことがあるとか、食卓に並べたとき、この野菜を使うとこんな風に素敵に見えるとか。日常にほんの少しプラスすると、自分も周りにも喜ばれて食べる時間が豊かになるような、そんな提案ができないかなと思いました。
こうして私の最初の仕事は、「彼らの野菜を誰にどう売るか」を一緒に考えることからスタートしました。
新潟市への行商や他店舗の売り場観察・自分たちの売り場づくり・価格のつけ方・商品ラベルの改善など、夫と義弟と自分がこれまで仕事でやってきたことの全てを現場で実践して、これまでの「良いものを作ってもなかなか売れない」というパターンから抜け出し、「うちの野菜はちゃんと売れるんだ」という実績と自信を一つ一つ積み重ねていきました。私にとっては、いわゆる初めての肉体労働系で、最初の年は病気や体調不良に悩まされましたが、とにかく日々忙しく必死でした。お陰でその年から野菜の売り上げはアップし(何しろ低いスタートだったのもありますが)、今は夫だけでやっています。
その延長で「これどうにかならないかな」と渡されたものの一つが現在、手掛けているTochioto「色で選ぶ野草茶シリーズ」に繋がっています。
当初、ビニール袋に「ごちゃ」っと入れられたそれは、ラベルもおどろおどろしいデザインで、目は引くけれど別の魅力が醸し出されている商品でした。
色で選ぶ野草茶は、薬事法の関係でお茶の効能を謳えない中、どうやって手に取る方に自分の体調や今の気持ちに合ったものを選んでもらおうか?というところから考えた商品です。パッケージに色彩心理学的なものを取り入れて、好きな色のパッケージのお茶を選ぶと自ずとその時の自分にぴったりな中身が入っているという仕組みです。昔、学んだ漢方のテキストなどを引っ張り出しては、ブレンド試作をし、今は新津の女性農家さんと一緒に作っているものを含めて8種類のラインナップにすることができました。
日々調理して食べる時間が取れなくても、外出先や職場でも手軽にお茶で体をいたわることができる、そんなお茶を作るために今日も私は自生している野草を取りに、山へ入ります。
今、Tochiotoではその野草茶を含めて大きく3本柱で事業を行っています。
1つ目は上述の野草茶を始めとする地元のものを使った加工品の企画販売。2つ目は古民家を活用した「おとなこども寺子屋Tochioto」の運営。3つ目は英会話講師、起業塾講師、新規プロジェクトの立ち上げ支援や広報など、講師業を軸としたお仕事です。
一見なんの脈絡もないように見えるバラバラの事業ですが、私の中では一つに繋がっていて、その根っこにある想いは「もっと世の中をカラフルに」というミッションに集約されます。
地方にはよく、あれがないこれがない、とそこにないものを指摘する人がいますが、ないならないで作ればいいわけで、実際それは大した問題ではないと思っています。むしろ、多様なスキル、価値観を持った人がいないこと、仕事に多様性がないこと。そしていたとしてもそれを生かし合えない空気や社会が脆弱なのであって、それは特に子どもの生き方や考え方の幅を狭めてしまうのでは、と感じました。
閉塞感ってなにも地方だけのものではないと思います。東京でもある意味、すっごく田舎を感じる場所があります。結局、人がネガティブに感じる田舎もしくは田舎者かどうかの基準というのは、その土地における干渉と卑屈さの人的濃度によるのかなと思っていて、もしそれが低ければたとえ私が住むような山奥と言われるところでも、風通し良くのびのびと感性を発揮して過ごしていける気がしています。そして、そんな空気を子どもたちには寺子屋という場で感じてほしいと思いました。
人口減少社会において、交流人口を増やすことも大事な一方で、今ここに住んで育っている地元が好きな子ども達がやがて戻ってこれるような循環をつくる。それが持続可能な地域につながるし、そのために「教育」という分野でできることはまだ沢山あると思ったのです。
ただその寺子屋については早々に軌道修正をすることになります。
塾ではなく、民泊を含めた交流拠点へと移行させたのです。わかりやすくいえば、塾としては失敗してしまったんです。理由は、生徒さんが集まらない上に、上記3の仕事が多くなるにつれて塾に携わる時間が取れなくなってしまったことがあげられます。
そして、ありがたいことに、こちらに来て2年目で息子も生まれていました。久々の育児、子どもとの日々…塾は自分でやればやるだけそんな子どもとの時間も減り、収益化するには時間がかかります。運営を人に任せればいいのだけれど、なんとなく二の足を踏む自分がいました。そこで始めたのが民泊です。
「新潟で唯一、英語(多少)と中国語が通じる」という特徴を打ち出して始めました。施設のすばらしさとか利便性では全く勝負にならないので、競合しないところでやっています。ちなみに中国語は留学経験のある夫の担当です。
これまでも、日本の大学生のゼミ合宿やインターンの受け入れなどもしていたので、やってきたことの延長で(ただ範囲を日本外にも広げただけという…)新規性はないかもしれませんが、何かを始める時は、負担なくできることから小さく始めるのが良いと思います。
先日も、とても素敵な方が広州から来てくれて、家族みんなで感激していました。単純にお金だけでは測れない交流や関係が生まれること、外からの目で自分たちを俯瞰的に見られることが民泊の良さかなと思います。これを活かして、いつか「民泊ことはじめ」的な講座も開けたらいいなと思っています。
次回は、最終回。これからについて書きたいと思います。
このページをSNSで共有する