2017.05.26 掲載
前編
ウチノ食堂藤蔵 店主
野呂 巧さん
新潟市在住
前編
かつて潟の水を日本海へ流すための治水事業で栄えた新潟市西区内野町。現在は新潟大学がキャンパスを構え、独自の歴史と新しい風が交わるような地域となっています。
その商店街の一角で、2017年5月に小さな食堂がオープンしました。名前は「ウチノ食堂藤蔵」。200年近く魚屋だった店舗を借りたのは、この町で生まれ育った野呂巧さん。海外への関心が強く関東の大学へ進学し、16カ国と1地域を訪問するなど、異文化に触れてきました。
そんな野呂さんがなぜ地方の商店街で食堂を始めたのか?これまでの歩みをお伺いしました!
野呂さんは1988年内野生まれ。高校2年生までは、勉強したいことも思いつかず専門学校に行き、手に職をつけて就職しようと思っていたそう。
「『カメラ』か『料理』のどちらかまで進路を絞っていたのですが、3年の時『WORLD JOURNEY世界一周しちゃえば(著者:高橋歩/出版社:A-Works)』という本に出会い、『えっ?こんなに安く海外に行けるの?』と衝撃を受けました。それから『海外に行きたい!』と強く思うようになり、受験勉強を始めました」。
そうして、東海大学文学部ヨーロッパ文明学科に入学。大学で学ぶうちにヨーロッパ・キリスト教圏だけでなく、イスラム圏の文化などにも興味を持ち他の学科の授業に出て勉強。世界の多様な文化に魅了されました。
「バイトでお金をためて、大学1年生の春休みにタイに1ヶ月。2年生のときはモロッコに1ヶ月間滞在しました。そう言えばどちらも大学で専攻していたヨーロッパではなかったですね(笑)」
その後、大学卒業後に7ヶ月かけて世界一周旅行。東南アジア、NY、メキシコ、キューバ、南米、スペイン、イスラエルなどに足を運び、多様な文化に触れました。行ったことのない場所、会ったことのない人、知らない文化に触れられたことについて野呂さんは、「海外に行ったから何かが変わったという気はしませんが、国籍や人種、宗教、ジェンダー、多様な人と出会ったことで、考え方の幅が広がった」と言います。
野呂さんは、就職活動を大学3年生の時に途中でやめました。就活がスタートした頃は、大学で学んでいたことと仕事が結び付かなかったそう。それでも何となく「海外に興味があるのだから、海外で働ける企業に」と、商社や大手メーカーの説明会などに足を運んでいました。
「企業の話を聞きに行っても、違和感が拭えなくて。一度、立ち止まって『どこで』『なにを』したいのかを考えてみることにしました」
海外で生活しないでも旅行でたまに行ければ自分は楽しめる。暮らすなら「新潟がいい」と感じました。しかし、「何がしたいのか?」は、なかなか決まらなかった。それでも、バイトしていた飲食店の雰囲気が好きだったという野呂さんは飲食業への興味を持つようになります。「高校2年のときにも進路の候補に『料理』があったこともあり、『いずれ自分のお店を持ちたい』と思うようになりました。それで、バイト先で1年間本気で働いてみることに。ちょうど人手不足の時期で、管理や教育も任されるようになり、飲食業の楽しさに気づきました」
そして、野呂さんは新卒では就職せず、世界一周の旅に出ることを選択しました。
「就職よりも世界一周を選択して、『新卒』という手札を手放した時はすごく勇気がいりました。当時は悩みに悩んで体調を崩したほど。でも、『安定とは何か?』を考えた時に『自分で食べていける力をつけること』が一番いいと思いました」
いずれ自分のお店を持つという夢に向けて、どんな経験を積むのが良いか?野呂さんは「就職してしまったら、世界をじっくり周ることは難しい!今しかない」と思い、バイトで貯めたお金で、新卒より世界一周の経験を買うことにしました。
その後は、「起業家予備軍」が多く所属していると聞き、埼玉の企業で寮に住み込みで1年間営業職として勤務。2013年から上越市の飲食店で2年間働きました。その時期にお店とは別に自分なりの料理をつくるようになり、新潟市西区内野のカフェで「ワンデイバル」というイベントを企画。それをきっかけに個人的にケータリングを頼まれるようになりました。
「仕事の知識、料理の技術、そして自分のお客さんも少しずつ広がってきた。一歩一歩ですが『自分で稼ぐ力』が身に付いてきたかな?と思えるようになりました」
世界を旅する中で一番影響を受けたのはスペインの「バル」でした。
「『サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路』を1ヶ月くらいかけて歩いてスペインを横断したのですが、行く先々にあるバルの雰囲気が素敵だった。バルと言ってもお酒を飲む場所という訳ではなく、昼から夜まで老若男女が集っています。昼間はすごく熱くて外を歩けないので、みんな休憩しにバルに来て、食事をしたり、ボードゲームをしてたり。夜はサッカー観戦していたり」
スペインで巡礼路を歩いていると、「日本人」としてでなく「巡礼者」として扱われるそう。巡礼者は世界中から来ていて、国籍も関係なく、フラットに接してもらえる。そういう人たちもバルは受け入れてくれている。その雰囲気がすごく好きになりました。
「バルの雰囲気を再現したくて、スペイン料理を作って提供するようになりました。スペインバルのように、みんながフラットに繋がれる場を生みだしたいと思うようになりました」
上越の飲食店で2年間働いた後、2015年4月に生まれ育った新潟市西区内野に戻ってきた野呂さん。次の予定は決まっていませんでした。
「一旦落ち着いて、自分のやりたいお店のスタイルを考えようと、しばらくは、たまにケータリングの仕事を受けながらも、他の店を見に行ったり、イベントや、内野町で若い人たちが取り組んでいたコミュニティ活動に関わりました」
2015年6月、知り合いから「新潟市中央区の上古町でバーのあるゲストハウスを立ち上げるために、調理担当を探している人がいる」という話をもらい、リノベーションから参加。2016年2月のバー、5月の宿オープンに関わり、9月まで勤務しました。その後、実家の味噌蔵の仕込みの手伝いをしました。親戚みんなが集まって味噌の仕込み手伝っている際に、親戚の一人から「巧くん、内野に空き物件があるよ」と、声をかけてもらいました。
「元・仕出し屋だった物件につないでもらい、不動産屋にない物件を、交渉の末、格安で借りることができました。コミュニケーションによって物件を手に入れた。そう言えば僕は、埼玉の会社も、上越の飲食店も、ゲストハウスも、自分で計画したものではないですね。偶然、人からつないでもらったんです。運がいいと言えば運がいい(笑)でも、ぽろっと来たチャンスに飛び込める柔軟性を持っているのは個人的な強みなのかもしれません」
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