2016.04.13 掲載
vol1
Tochioto(とちおと)代表
野村(刈屋)ひと美さん
36歳 長岡市在住
vol1
福島県出身。2児の母。祖父母、父親など教師一家に生まれ育つ。大学卒業後は、ライター・編集者を経て、地域活性化コンサルタントに。2012年長岡市栃尾地域に移住。「色で選ぶ野草茶」の加工販売や古民家を改装した「おとなこども寺子屋Tochioto」の運営をしている。
すきなこと:冬の温泉、野菜中心のご飯、保存食作り。子どものころの夢:料理記者
はじめまして。移住4年目、長岡市栃尾地域に暮らす野村(刈屋)ひと美と申します。
古民家を改修した「おとなこども寺子屋Tochioto(とちおと)」の運営をする傍ら「色で選ぶ野草茶」という、パッケージの色からその時々の体調や心理状態を反映したお茶選びができる商品を作って販売したりしています。また面白いメンバーともに、雪国のしんどさをアイディアとユーモア、そして知性で乗り切るプロジェクト「雪国くらしかた研究所」の研究員もやっています。
私は3年前、小学校に上がる前の娘と2人、これからの生活に希望を膨らませて、東京の品川区からこの土地にやってきました。ここで再婚して、新しい家族と生活をともにするためです。
一緒に暮らすのは新しい夫とその弟、農業研修生2人。そして敷地内には80代の祖父母と叔母、犬が1匹という総勢9人+1匹の大所帯です。
そんなこんなで私のサバイバル移住はこれまでの女2人の生活からは一変、どこか男子校のような男4人の一軒家に足を踏み入れるところからスタートしました。
これから約1年間、4回にわたって働き方についての連載をさせていただきますが、第1回は、私のこれまでについての話をしたいと思います。
今、これを読んでいらっしゃる方の中には、仕事・暮らし・家族・お金…これからどうやって生きていこうと、現在の生き方にすこし疑問を感じている方もいらっしゃるかもしれません。女性だと特に、出産リミットも考慮して、次々と人生の岐路に立たされますよね。
私は一度目の結婚を大学生の時にしていて、約10年間結婚生活を、その後シングルマザー生活を3年。仕事はライター・編集者・地域活性化コンサルタントをして現在に至り、子どもは26歳の時と、33歳の時に生んでいます。あまり一貫性のないキャリアですが、人も動物で自然の一部とするならば、変化していくことは当たり前として、その時にいいバランスを探って生きていければ、いずれ道は繋がるのかなと思っています。
そんな生き方を受容してくれる大きさが、自然の中には既にあったと、ここに来て気付くことができたから、私は前ほど迷わず歩んでいけるような気がしています。
皆さんがよく移住の際、気にされる年収みたいなところでいえば、既に東京時代にあっさり桁が変わるような経験を一度していて、そこでわかったことが多くありました。
よく、一度上げた生活レベルって下げられないみたいなことを聞くけれど、自分はそうじゃないし、金額の大小よりむしろ下品なお金の使い方が嫌なんだなとか、子どもと一緒にいる時間を増やすには自分の労働対価に頼るだけでなく、投資を上手く組み合わせる方法もありだなとか。そうするとまた仕事の選択肢が増えるんですよね。
シングルマザーも低所得で大変みたいな人ばっかりでもなく(当たり前ですが)バリキャリの人だっているし、子どもの気持ちに配慮して結婚はしないけど、程よく見守ってくれるパートナーがいる人、友達同士助け合う人など、家族だって色んな形がある。当事者になったからこそわかることや、出会った人達が私の視野を大きく広げてくれました。
私も親子2人だからこそできることをしよう!と思って、当時の仕事も絡めて日本全国いろんなところに娘と行きました。あんなにマイルの貯まっていた子どもはそんなにいないんじゃないかというくらい、北海道から沖縄まで、島国日本の原風景ともいえる地方へ行き、ある時はそこでかけがえのない優しさをかけていただきました。感性豊かな子どもと一緒だからこそ感じられた、また見ることができたその頃の風景は、今思い返してもとても温かい、大切な思い出として生涯忘れることはないでしょう。
当時勤務していた地域コンサルティング会社の仕事は、広くその地域が活性化するための策を、現地の人と考え、サポートすることでした。ツアー企画、またある時は特産品づくりのサポートであったり、各省庁や自治体、大学などとの折衝も多く、貴重な経験をさせていただきました。
ただいつからか、少し自己批判的に疑問を感じる場面も出てきて…。
例えば、地方での起業をサポートしているのに、自分自身にその経験がない。だから、現場感覚がないまま机上の空論で講座などを組み立てたりしてしまう。
また、地域プロデュースって、あくまで扱っているのは、人が一生懸命作り上げてきたものなのに、単に数回地域へ行ったり、話を聞いただけだったりする私が「素晴らしい」とそれを理解したつもりになって外に伝えているのってどうなんだろうと。
そこに横たわる一抹の後ろめたさは、自分自身の薄っぺらさとも重なりました。
私はずっと自分の言葉を持ちたいと思っていたのに、誰かが作ったものにただ簡単に飛びついて、センス良く美しく編集したつもりで生きている。でもそんなことを繰り返すうち、本当に自分が好きだったものや、大切にしたい気持ち、ちっぽけでも湧き出る感情が一つ一つどんどん小さくなってなくなっていくような、そんな気がしました。
ただ、私はおかしいと思いつつも立ち止まることができませんでした。それはどう試算しても地方で母子家庭をするより、都会で生活を続けたほうが、経済的には成り立つ試算になったからです。また、いざという時、人の縁がなくても対価を払えば利用できるサービスは都会のほうがはるかに整っているのも現状です。
そんな風に迷っていた矢先に3.11の震災が起こりました。私は会社に休暇を申し出て、母子避難することになります。
私の実家は福島県の会津若松市というところにあるのですが、幸い被害は少ないものでした。
ただ、唯一ともいえるそのセーフティーネットが断たれたとき、子どもはどこに行けばいいんだろうという不安を感じ、友人に相談したら、なんと京都のお寺を避難先として紹介してくれました。
「まさに駆け込み寺」と思いながら向かったそのお寺生活が、その後の私の人生を大きく変えていくきっかけになります。そのお話は次回へ続きます。
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