2016.09.07 掲載
株式会社タネル代表取締役、デザイナー
今道芳和さん、関谷聡美さん
新潟市・東京都2拠点居住
山形県小国町出身の今道さん、新潟市秋葉区出身の関谷さん。ともに美容専門学校に進学するため上京。卒業後は美容師として働き始めるが、関谷さんは薬品アレルギーが悪化したため、アクセサリーデザイナーに転向し、自身のブランドを立ち上げる。今道さんはスタイリストとして活躍する傍ら、インテリア業にも携わるようになる。2008年、自由が丘にジュエリー・ブライダルサロン・ヘアーサロンを複合したライフスタイル型のショップを構える。今年2月に2号店となるショップを新潟市秋葉区にオープンし、東京・新潟2拠点居住をスタート。新潟の四季を感じながら、それぞれの土地の良さを実感する日々を送る。
「四季がはっきりとわかるところで暮らしたい」、そう思って探し続けていたら、新潟市秋葉区に出会いました。妻の出身地ということで、Uターンと思われがちですが、それを目指していたわけではなく、私たちのこれからの一手を探していたら辿り着いたという感じです。
私たちは高校卒業後、それぞれ東京の美容専門学校に進学しました。
私の地元は、新潟県の関川村にほど近い山形県小国町という山間部なんですが、兄や同級生はみんなおしゃれで、その時々のトレンドを取り入れるのが早かったんです。当時流行っていたマイケルジョーダンのバッシュやMA-1、ヤンキースのキャップなど、今思えばちぐはぐだったと思うのですが、どうやったらかっこいいかという話をよくしていました。新潟市や仙台市によく買い物に行っていましたが、やっぱりそういう世界を目指すには、東京に行くのが一番の近道だと思ったんです。
同じように東京に進学しましたが、両親の対応は全然違い、彼女のご両親はすごく心配して、なかなか県外進学を許してはくれなかったそうです。何度も説得し、学校指定の女子寮に入ることで、やっとOKが出たんです。一方私は、すでに兄が東京で暮らしており、一緒に住むことになっていました。しかし、急遽カバン1つで1年間友人宅を転々と移動する生活になってしまったんです。それでもたまに荷物を送ってくれる両親は「いまどこに住んでるの?」といたって普通。気にしなかったみたいです。(笑)
学校を卒業してからは、制度が途中で変わったこともあり、少し違う道のりでした。私は1年間インターンを経て国家試験を受験、その後美容師デビューし、3年間朝から晩まで修行に明け暮れ、スタイリストになりました。彼女は国家資格を取得してから卒業し就職、その後1年ほど勤めました。しかし、薬品アレルギーが悪化したためやむなく退職。その後、アクセサリー制作・デザインに転向しました。
彼女の職種は大きく変わりましたが、本人はあまり抵抗はありませんでした。というのも、学生の時に暮らしていた寮は色々な学校の生徒が暮らしており、多様な働き方をする人が多かったそうなんです。その友人たちの影響もあり、彼女も学生の時からアクセサリー制作、卸の仕事をしていました。転向後、彫金の専門学校で勉強しつつ、デザイナーとして自身のブランドを立ち上げ、展示会にも出展するようになりました。
この頃には、私はスタイリストとして働く傍ら、もっと広い視点で空間を捉えたいと、インテリアや空間デザインにも携わるようになっていました。私たちの出会いはよく行くカフェの店員さんとお客さんだったんですが、ふとしたタイミングで話す機会があり、その後公私を共にするパートナーになりました。
彼女と出会った頃、私は独立を考えており、「普通の美容室」ではなく、「ライフスタイルを提案するサロン」をつくりたいと思っていました。一方彼女は自身のブランドを続けていくか、就職するか悩んだ時期。私は彼女のつくる作品が好きで、表現者としてのデザイナー活動の方が向いているのではないかと思いましたが、自身のブランドを立ち上げ、続けるということは、そのために走り続けなければならず、自分自身と戦い続けなければなりません。彼女の意思は、彼女自身が決めることなので、その思いが決まるまで待つことにしました。
結果的に、お互いのやりたいことやイメージ、タイミングが重なり、自由が丘で一緒に店を構え、今年8年目を迎えました。
ライフスタイルの提案というとイメージしにくいかもしれませんが、例えば髪を短くすると耳が出るので、新しいピアスが欲しくなったり、印象が変わることで持ち物のテイストが少し変わったりすると思うんです。そんな時、同じ場所にセレクトするものがあるといいなと思って、複合型の形態を続けています。
また、美容室にずっと通ってくださるお客様の変化や節目に関わらせてもらえることも多く、学生の時から通ってくださる方が、ご結婚の時に指輪を頼んでくださったこともあるんです。近所のおじちゃんおばちゃんになった気分なんですけど(笑)、そんな風にお客様の人生に関われることをとても嬉しく思います。
2店舗目の出店を考え始めたのは、自由が丘での働き方が確立してきて、これからの展開に奥行きを出すため、自然に近いところに店舗がある方が私たちらしいと思ったから。
場所選びには時間をかけました。四季がはっきりしている場所が良かったので、雪が降るところでないとだめだったんです。けれど、通ってくださるお客様のことも考え、交通の便が良いことも条件として外せませんでした。私の地元、山形県小国町は東京から米沢まで行って、そこから更に車移動しなければならず、アクセスが不便。個人的には山に近い限界集落にとても魅力を感じるんですが、交通の便のことに加え、その土地の需要と私たちのビジョンがマッチしていないと実を結びにくいと思ったんです。
そういった点で、新潟市はアクセスが良く、雪も降る。新潟市の中でも、里山に近くてバランスの良い秋葉区はベストな場所でした。
決め手には、Akiha森のようちえんの原さんの影響もあったと思います。原さんは、里山の面白さを引き出し、うまく活用する人です。これができるかどうかは、そこに暮らす人の感度も影響していると思っていて、この部分に惹かれたことも、秋葉区を選んだ理由の一つになっていると思います。「ちょっと変な大人」がいるかいないかが大事なんです。(笑)
今年2月にお店をオープンし、4月に秋葉区・自由が丘2拠点居住をスタートさせました。私は週末東京にいて、妻と子どもたちは月1回来ています。どちらかだけでは体験できないことも、両方で暮らすことでその時々に必要なことを感じられるいいとこ取りの暮らし方だと思っています。
妻の両親は、孫が近くで暮らすことを喜んでいます。子どもたちにとっても、甘えられる人が増えたことや、居たい場所を選択する自由があることがいいみたいで、最近は「お迎えはおばあちゃんがいい!」とリクエストをくれたりします。
私たちは、この生活をしていることで仕事の可能性が広がっていると感じています。それは妻のデザイナーとしての仕事にも表れていて、今後はそれをどう発信していくかというのを考えていきたいです。今までは作品を展示して販売していましたが、これからはその作品がどんな場所でどうやってできているのか、リアリティのある世界観を表現できたらいいと思っています。モノの選び方や人の価値観が変わるきっかけになるような場所になりたいと思っています。
家族としては、私たちが子どもたちを養っている感覚はなくて、みんなで船を漕いでいる感覚で暮らしています。不便なことも大変なこともどんどんやりたい。家族みんなで挑戦し、みんなで失敗も経験していきたいです。
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