2018.10.31 掲載
vol.3
オーサム・ビーチ・アーキテクト、小竹屋旅館 他
杤堀 耕一(とちぼり こういち)さん
柏崎市
vol.3
1970年生まれ、柏崎市出身。地元でハンドボールに熱中する学生生活を送り、大阪芸術大学へ進学。卒業後は東京のマーケティング会社でキャリアをスタート。領域は様々ながら、一貫して企画やマーケティング、事業開発等に携わる。サラリーマンとしては、誰もが知るキャラクター会社でキャリアを終え、2009年柏崎市にUターン。現在は地元の観光等に関わりながら、実家の新規事業の準備を進めている。
前回は、サラリーマン時代のお話と、Uターンしてサイダーを作り始めた頃の話、観光の領域では外の目をもった人が活躍できるチャンスがあります、というお話をしました。
最終回の今回は、私のプライベートな部分、家族のことや地元の魅力、そして今後の夢についてです。
2018年10月現在、一緒に暮らしている家族は、父と妻と息子の3人です。Uターンした当時の2009年は独身でしたが、2013年に結婚。妻は地元で180年続く味噌蔵の娘でした。彼女もまた、地元を離れて暮らしていましたが、Uターンして家業の手伝いを始めていました。結婚後も仕事を続け、専務として経営にも携わっています。私の父は、本業であった瓦職人を引退し、旅館の仕事をしながら孫との生活を楽しみにしています。母は、昨年の6月に急逝しました。家族の中で最も健康的な生活を送っていた母の死は、あまりに突然だったこともあり、なかなか実感がわかなかったものです。家業の旅館も、料理上手な母の手料理と、独特なゴッドマザー的女将キャラで売ってきたところもあり、ダメージは小さくありませんでした。母が亡くなって家の中が静かになった頃に誕生したのが、息子です。今年の5月に産まれ現時点でまだ約5ヶ月。厳密には義母の家に里帰り中で、私は息子と一緒に寝たことがまだありません。予定日よりもかなり早く産まれた長男ですが、すくすく育ってくれています。こうして、自分が生まれた育った土地で、自分の子どもを育てられるのは素直に嬉しく、Uターンして良かったと思えることの一つです。これからは息子も毎日海を見ながら生活することになります。彼もこの海を気に入ってくれるといいのですが。
ここ数年で自分や家族に起こったことは、生きることの意味や、自分のミッションを考えるきっかけを与えてくれたように思います。思う存分生きよう、でも、自分が得たものはその次の世代に手渡そう、今はそんな風に考えるようになりました。この地でこれから新たに挑戦する事業でどんな結果を得られるか、それはまだ全く想像もつきません。なんとかあと20年、事業をしっかり全うして、息子に手渡す。それがいまの私の夢です。自分も、両親からチャンスを与えられました。手渡されたものをどうするかは、息子が考えればいいことです。その時に、彼の選択肢を増やせたり、新しいチャレンジの機会を与えられたりできれば、それでいいと思っています。これからも、家族や血縁者の中で、新しい命が誕生したり、命を全うしてこの世を去ったり、いろんなことがあると思います。そのたびに、自分もこのバトンを先祖代々繋いできた、その一部なんだと意識することでしょう。自分だけ調子が良ければいいわけでなく、自分が調子悪くても、いつか、どこかで、挽回する人がいてくれたらいい。東京で生活し続けていたら、おそらく湧き上がってこない発想です。そういう意味でも、Uターンした甲斐があったかなと。身近に血縁者がいるという環境は、自分のおかれた立場を、時折こうして再認識させてくれます。
ここ数年、いくつかの事業を検討してきました。アイディアや妄想には制約がありません。しかし、自分はそこに「このロケーションの価値を最大化させる」というテーマを設定しています。インターネットによって場所に縛られることがなくなった時代に、あえて場所に固執しよう、というわけです。建物の外壁を削り取るほどの、猛烈な砂混じりの季節風が4ヶ月も吹き荒れ、すべての鉄を腐食させる潮風が一年中吹き付けるこの過酷な土地に、それでも人を魅了する何かがあると信じています。海に沈む夕日は自然が生み出す絵画であり、雄大な天の川や無数の星々が物語を演じる星空は劇場です。子ども達が遊ぶ砂浜、大人が夢中で波に乗る海、時間によって、季節によって、さまざまな刺激と安らぎを与えてくれます。私が思う地元柏崎のいいところです。新潟は豪雪地帯、雪と闘いながら知恵と工夫でたくましく産業を興している素晴らしい先輩経営者がたくさんいます。近年、雪室の効果が再評価され、新潟のブランドに成長している例があります。海、砂、風、これらを事業に活かすことができれば、この景観や風土、文化を事業に昇華できれば、また人口減や高齢化さえもプラスに活かせれば、コアコンピタンス(企業の中核となる強み)を強固なものにできるはずです。これから世の中はどう変わってゆくのか、何が変わらないのか。そこで、この海が提供できる価値に、どんな可能性があるのか。おそらく、今は存在しない市場だったり、今ある要素に何かを掛け合わせることで生まれる新しい市場だったり、そんなところで勝負することになると思っています。これまで取り組んできた、宿屋やサイダーやシーカヤックやBBQを、そのまま事業として私が継続することは、おそらくありません。しかし、この経験は大いにその糧となるはずです。少々時間はかかり過ぎましたが、ここで新しい価値を生み出す挑戦ができたことはとても幸運でした。
数年後、カタコトの怪しい英語を操りながら商談する私を、モンゴルやカザフスタンのトレードショーで見かけるかもしれません。前掛けやラッシュガードではなく、仕立てのいいスーツに身を包んだ姿に、真っ黒おじさんの面影を見ることはできないでしょう。
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