2016.06.22 掲載
vol1
陶芸作家
藤田陽子さん
43歳 村上市
vol1
村上市出身。美術短期大学卒業後、胎内市(旧中条町)の坂爪勝幸先生に師事し、21年間陶芸を学ぶ。2016年2月、生まれ育った村上市瀬波温泉でToi陶房をopen。訪れる観光客や地域の人に作品を見てもらいたいとの思いで、ギャラリーと制作スペースが一体化した開放的な陶房に。陶芸体験を通して土に触れてモノをつくる面白さや自分で作った器で食事を楽しむなど、日常生活で少しでも豊かな気持ちになれる時間を提供したいと考えています。
私が育った瀬波温泉は海沿いにあり、山と海の間にある自然に囲まれた温泉場です。松林を抜ける潮風は気持ちが良く、子どもの頃は松林で遊んでいました。
私が「なぜ陶芸に興味を持ったのか。」具体的には分からないのですが、今考えてみると、育った環境が影響しているのではないかと思います。
焼き物に初めて触れたのは、6~7歳だったと思います。その頃、祖母の家で裏千家の先生が茶道を教えており、私は茶道とは何かもわかっていませんでしたが、綺麗な和菓子につられて茶道を習い始めました。最初は綺麗な和菓子に惹かれて始めたお茶のお稽古ですが、先生はお稽古が上手くいかない私に優しく行儀や立ち振る舞いなどを教えてくださいました。先生はいろいろなことを教えてくださいましたが、当時の私は、茶道は難しくて理解ができず、ただお行儀良くお点前をしてお茶を頂いていました。
大人になった今、茶道は、書・お花・焼き物・塗り・庭・建築などの総合芸術だと思っていて、今でも勉強しなければいけないと思っています。茶の湯の精神というのは深いもので、未だに解らないことがあり大変難しいです。
もう一つの環境としては、実家が寿司屋を営んでおり、お店のカウンターの壁には古伊万里や九谷焼などの大皿が飾られ、幼い頃から焼き物を自然と目にする機会は人より多かったのかもしれません。
父はもちろんのこと、母も器で料理を楽しみ、私にも食事の大切さや楽しみ方を教えていたようでした。
自分自身を振り返ってみると、子供の頃は図工や絵を描くことがとても好きで、広告の裏に絵を描いたり、紙粘土やお菓子の容器や箱を使って人や動物を作っていました。編み物(かぎ針)にも夢中になった時期があり、手袋や帽子などを作ったこともありました。何かを作り始めると時間も忘れて没頭してしまう、そんな子どもでした。
よく一人遊びに夢中になっていたのには、家族の仕事や環境が影響していたのかなと思います。兄がおりますが歳が離れていたので、私が中学生の時には一人っ子状態。両親は寿司屋をしていたので、夜遅くまで家には帰ってこられず、少し寂しい思いをしていたように思います。
今になって考えると、絵を描いたり、作ったりしていたことは、寂しさを感じながらもその時の自分の気持ちと向き合い、自分という人間を考えるためにしていた行為だと思うのです。
そんな子ども時代を過ごし、同級生からはよく、「藤田は絵を描くことが好きだから美大に行ったらいいよ。」と言われて、美術を勉強できる大学のことを知りました。また、従姉も美大に通っていたので、沢山の色の油絵具、見たことのない画材に触れて楽しかったことを思い出します。
そんなこともあって、「美大っておもしろそうだなあ。」となんとなく思っており、高校2年生で進路を考える時に美大を受験することに決めました。美術の先生からは「今からでは遅い。」と言われましたが、諦めきれず当時所属していたテニス部を辞めて美術部に転部し、放課後は美術室で一人デッサンを描いていました。先生に難しいと言われても、自分の好きなことを職業にしたかったし、諦めたことで後悔したくなかったのです。
幼い頃の影響もあってか、陶芸を勉強したいと思い、東京の陶芸科がある美大を志望しました。美術館やギャラリーなどを見て回りたかったこと、また、当時はインターネットが無い頃だったので、美術書などの専門書を扱っている本屋さんや、画材・陶芸材料も買いに行きやすいことも東京を選んだ理由です。
美大では、とにかく技術を身に付けたいという思いから、遅くまで学校に残って毎日ロクロを回していました。土に触れていると心地よく、好きなことを仕事にしていけるような希望を持っていました。
卒業が近づいてきた頃には、陶芸家になりたいと思っていて、就職は考えていませんでした。東京では陶芸をするスペースにかぎりがあるため、上京した時から大学は東京、陶芸は新潟でやることに決めていました。また、友人の紹介で、今も師と仰ぐ坂爪先生との出会いがあり、新潟にUターンし、陶芸をより深く学ぶ環境に身を置くことにしました。
次回は、坂爪工房で過ごした日々をお伝えしたいと思います。
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