2021.01.27 掲載
株式会社スタジオジャパホ 代表取締役社長
塚田 卓弥さん
上越市
\塚田さんってこんなひと/
◎出身など 1968年生まれ。長野県軽井沢町出身
◎移住年月 1991年(1回目)、2016年(2回目)
◎経歴 Vail Resorts株式会社(アメリカ)→新井リゾート株式会社(妙高市)→スタジオジャパホ起業(東京都)→妙高市と東京都の二拠点生活→移住(上越市)
◎家族構成 妻・子ども・猫2匹
◎にいがた暮らしのおすすめポイント
上越・妙高には山や海、交通の利便性が揃っています。程よく田舎で、移動もしやすい。暮らしやすい場所だと思いますよ。
積雪量の少ない長野県軽井沢町に生まれ育った塚田さんにとって、スキーは遠い存在でした。しかし、小学3年生のころに訪れた苗場のスキー場で雪山に魅せられます。「県境の峠を越えると見える白銀の世界がとにかく新鮮で驚いたことを今でも覚えています。柔らかなパウダースノー、滑っているときの心地よさ。すべてが初めての経験でどんどんスキーにのめり込みました」。
高校卒業後は、料理系の専門学校へ進み、さらにアメリカの料理学校に入学する予定で渡米しました。しかし、入学の直前、語学学校に通っているときにコロラド州に旅行へ行き、そこで3000m〜4000m級の山々でのスキーを経験。そのスケールの大きさに完全に魅了され、料理の道ではなく、スキーに関わる仕事につくことを決意します。 料理学校への入学を辞退し、アメリカの国家資格であるプロスキー教師資格を取得。コロラド州の大手リゾート会社「Vail Resorts」に入社し、インストラクターをしながらスキー場のコース設計などに携わりました。この頃スノーボードと出会い、夢中になったそうです。
1991年、知人の誘いで、スキーリゾート開発を行う新井市(現:妙高市)の新井リゾート株式会社(当時)に入社。新たに開業するスキー場の開発許認可申請やコース設計の業務を担当しました。1993年にスキー場やホテル、温泉などが揃った複合リゾート施設「ARAI MOUNTAIN&SPA」がオープン。パウダースノーを楽しめる行き届いたゲレンデ運営で人気を博しました。 塚田さんはスノーボードのハーフパイプの製造機を日本で初めて輸入し、スノーボードのコース設計にも力を注ぎます。しかし、経営主体が変わったことでスノーボードを禁止にする方針に。「スノーボードをもっと日本に定着させるにはどうしたらいいか」と考え、退職を決断します。
「インターネットを使ってスノーボード好きの仲間を世界中から集めよう」と東京でスタジオジャパホを起業し、スノーボードやスキー場の情報を発信するWEBメディアを立ち上げました。「当時は、スキー場の積雪情報やパウダーがどの程度かをリアルタイムで知る方法は限られていました。スキー場近くのおすすめ飲食店などの細かい情報もできるだけ発信するよう心がけていると、次第にスノーボード好きが集まるサイトになりました」。その後は、ヘリコプターや雪上車を使ったアクティビティ、海外企業との事業提携、スキー場のツアーの商品化などスノーボードやスキーに特化した事業を展開。会社は順調に成長していきました。
昼夜問わず働き、多忙な日々を送っていた2011年、東日本大震災が発生。そのときに初めて人生の有限性を意識し、自身の働き方や生き方と向き合うこととなったそうです。「それまで自分の人生を省みることはありませんでした。でも、震災をきっかけに自分が人生を通してやりたいことを考えたら、自分を含めた雪山好きな人たちが雪山で暮らし、働ける環境をつくりたいと思って。事業を縮小して、東京と妙高市の二拠点生活を始めました」。滞在型農園「クラインガルテン妙高」で家と畑を借り、春から秋は農業、冬は雪山で過ごす暮らしとなりました。
そんな生活を続ける塚田さんのもとに、2015年「閉鎖した新井リゾートをもう一度開けたいから、力を貸してほしい」という相談がやってきます。そこで、同年の北陸新幹線開通に合わせて雪上車ツアーを開催したところ大変好評に。2016年から妙高観光推進協議会の戦略コーディネーターを務めることになり、これを機に上越市に自宅を購入したといいます。「当時の事業のメインはWEBマーケティングなどインターネットがあれば、どこでもできる仕事。それなら、自然環境が整った場所に移住したいと考えるようになりました」。
そして2017年、お子さんが小学校を卒業するタイミングで、家族全員で上越市に移住することになったのです。
自宅を購入したのは、上越市の飛び地でほとんどが妙高市に囲まれている上越市中郷区岡沢。山が近くて、海にも行ける、高速ICから近い場所を探していたところ、日本の原風景のような、のどかなこの土地を見つけました。住民同士の結びつきが強い一方で、人口減少に危機意識を持っている人が多く、 よそ者の塚田さんにも好意的に接してくれたそうです。
「地域のみなさんが本当に良い人ばかりなんです。さっきも仕事で高圧洗浄機を使いたくて探していたら、住民の方が使っているのを見かけて、直接の知り合いじゃなかったんだけど、相談したら『いいよ、貸してやるよ』って。初めて会った人でも受け入れてくれる優しさがあります」。田舎での暮らしには、用水路の掃除や草刈り、農業用道路や畦道の整備など、住民みんなで取り組む仕事がたくさんあります。地域の人と一緒に汗を流すことで、会話の機会が生まれ、少しずつ関係ができあがっていきました。
スノーボードやスキーを好きな人たちが雪山で一年中生活して仕事ができる地域づくりを目指したいと考えていた塚田さん。その理想を「遊雪農商」という言葉で表現します。岡沢での仕事の選択肢を増やすことで、雪山を好きな人たちが雪山の近くで働き、遊び、豊かな暮らしを築くことができる。そんな「遊雪農商」の好循環を実現すべく、YUKISATOプロジェクトを立ち上げました。
最初に作ったのは、地域の人とコミュニケーションを取り、想いを共有し議論する学びの拠点「YUKISATO Lab.」。住民の寄合やYUKISATOプロジェクトを進めるための組織「雪郷おかざわ地域づくり協議会」の集会場として使われています。次に着手したのは、遊びの拠点「YUKISATO Base」。塚田さんが「岡沢でスノーモービルを飛ばして遊べたら最高だろうな」と話をしていたところ、地域の人から「中古でよければ、スノーモービルあるよ」「使っていない倉庫があるから、そこを使えばいいよ」と声をかけられ、トントン拍子で話が進んでいくことに。スノーモービルや雪上のマウンテンバイクツアーを企画し、みんなが遊んで楽しめる拠点になっています。そして、2020年2月には、外から人を呼び、岡沢に何度も通ってもらうための拠点として、古民家を改修した一棟貸しの宿「YUKISATO Lodge」を開業しました 。
幅広く事業を展開してきた塚田さんの周りには、いつしか共感する仲間たちが増え、中には岡沢に移住する人も出てきました。社員として入社し、現在は業務委託で連携している石崎琢磨さんもその一人です。
東京都出身の石崎さんは自然が好きで妙高市にある国際自然環境アウトドア専門学校に社会人入学。アウトドアの楽しさを伝える野外活動指導者として勉強をしているときに講演会で聞いた塚田さんの話に共感し、スタジオジャパホにインターンとして携わるようになりました。「僕自身もスキーが好きで雪山によく遊びに行っていたので、『遊雪農商』の理想に共感し、そんな働き方が実現できればと事業を手伝うようになったんです」。石崎さんはYUKISATOプロジェクトに幅広く携わり、そのまま入社。その後もスキー場の営業やイベント企画、ウェアやボードのレンタルショップ、道の駅あらいにあるパン屋さんの経営など様々な部署を担当しました。そのどれもが社員同士でブレインストーミングをしながら進めるもの。「社長や他の社員の知恵も借りながら考え、新しい案が出たときは本当に嬉しい」と、石崎さんは尊敬できる仲間と働けることの楽しさを語ってくれました。
塚田さんが上越・妙高と関わるようになって、30年近く。近年は次世代に自然を残していくことを強く意識するようになったといいます。「自然は一度失われてしまったら、取り戻すまでに膨大な時間がかかります。例えば、木。植林をしてから数十年かかってようやく立派な木になります。ただ、その木を保全・伐採をして、森林の状態を保つ林業の担い手が少なくなっている。僕らが『遊雪農商』を提唱してこの価値観に共感してくれる人を世界中から集められたら、林業の担い手も見つかるかもしれない」。
地域の担い手不足に少しでも役に立ちたいと語る塚田さんは、集落を受け継ぎ、バトンをつなぐことへの責任を感じています。「地域のじいちゃんたちが僕に土地を託してくれた。だから今度は、僕が若い世代に託す番です。『遊雪農商』に共感する仲間を集める中で、岡沢の暮らしと自然を引き継いでくれる人を探していきたいですね」。
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