2020.01.15 掲載
新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ 総合営業部
山口祥吾さん
三条市
1992年生まれ。神奈川県出身の元プロ野球投手。2010年のプロ野球ドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから育成2位指名を受けて入団したが2年後に戦力外通告を受ける。その後、トライアウトをきっかけに新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ(アルビレックスBC)に投手として入団した。3年間選手として活躍した後に現役を引退。埼玉県で会社員として働いていた時に結婚。第一子が生まれたことをきっかけに妻の地元である新潟に家族で移住。たまたま連絡したことをきっかけに、古巣であるアルビレックスBCの球団職員として働くことに。現在は営業部で試合運営をはじめ、小学生向けの野球スクール「野球塾」のコーチとしても活躍している。
\インタビューのポイント/
●プロ野球選手としての運命
NPB12球団合同トライアウトで新潟アルビレックスBCとの縁が生まれた
●子育ての場所として新潟を選択
妻の出身地で実家のある新潟に移住することを決断した
●人のあたたかさを感じる新潟
たくさんの方々との出会いと縁が今の自分を作っている
私が野球を始めたのは小学4年生でした。どちらの手でもボールを投げることができたのですが、左手で投げる方が回転のよいボールが投げられると父が判断し、それ以来左投げ、左打ちで野球をやるようになりました。高校は、生まれ故郷の神奈川県の立花学園高校に入学し、甲子園を目指して野球を続けていました。残念ながら甲子園に出場することはできませんでしたが、2010年のプロ野球ドラフト会議で千葉ロッテマリーンズの育成枠で指名を受け、2011年に育成選手として入団しました。
2年間、プロ野球の世界に身を置いて精一杯頑張りましたが2012年秋に戦力外通告を受けました。ですが、まだプロとして頑張りたかった私は、その年のオフに行われたNPB12球団合同トライアウトに参加して、プロ野球選手として生きる道を探しました。当日は良いピッチングができたこともあり、終了後にどこかの球団から声がかかるのを待っていました。その時に私のピッチングを見て声をかけてくれたのが新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ(アルビレックスBC)だったのです。
アルビレックスBCからお誘いの電話をいただいたものの、すぐに返事はできませんでした。なぜなら、まだNPB(日本野球機構)の12球団から連絡が来る可能性が残っていたからです。できることなら独立リーグではなく、NPBの球団で投げたいと思っていました。ですが、結果的にNPBの球団から声がかかることはありませんでした。その後、アルビレックスBCと同じく独立リーグに所属する長野県の信濃グランセローズからもお誘いをいただいたのですが、熱心に私のことを誘ってくれ、投手としての私を必要としてくれたアルビレックスBCの強い熱意を感じ入団を決めました。それが私の新潟県との最初の出会いでした。
どれだけ野球がやりたくても、どこのチームからも声がかからなければプロ選手として野球はできません。だから、本当にありがたかったですし、野球選手としてユニフォームを着られることが何より嬉しかったです。しっかりとチームに貢献して、その上でまたNPBの球団に戻るという目標を持って、新潟に行くことを決めました。
2013年の確か2月だったと思います。野球用具などの荷物も多かったので、自分でクルマを運転して引っ越して来たのですが、関越トンネルを抜けて新潟県に入った瞬間、一面の雪景色。正直なところ「マジかよ!ここで野球ができるの?」と思ったことは今も鮮明に覚えています(笑)。
そして、2013年から3年間、アルビレックスBCで投手として野球をやらせてもらい、2015年シーズンにはルートインBCリーグで優勝することもできました。しかし、個人的な目標であった「もう一度NPBの12球団に戻る」については、結局どこの球団のスカウトからも声はかかりませんでした。「やり切った」とは程遠い気持ちでしたが、野球選手を終えた後にも長い人生があるわけですし、自分のセカンドステージで頑張ろうと思い23歳で現役を引退しました。
それまで野球一筋の人生を送ってきたので、今後の自分のためにと、野球から離れ埼玉県にある建設業の会社で2年間会社員として働きました。道路の舗装工事や水道管を通す工事、宅地造成など現場の作業員として働きました。その頃、アルビレックスBC時代から交際していた新潟出身の妻と結婚しました。その後、第一子を授かったのですが、私は神奈川で妻は新潟の出身。頼れる人がいない埼玉で子育てをしていく難しさに直面したのです。夫婦で話し合いどちらかの地元に戻ろうということになった時、私は妻に「新潟に帰ろう」と言いました。私自身に神奈川に帰りたいという気持ちがなかったのですが、それだけでなく、3年間新潟で生活をしたこともあってか、漠然と「新潟ならやっていける」と思えたのです。こうして家族3人で新潟に移住することを決めました。
とは言え、仕事も何も決まっていない状態。「新潟」と言って思い浮かぶのは、もちろんアルビレックスBCだけでした。新潟で暮らすことを決めた時点で、選手時代からお世話になっていた編成部の辻部長にそのことを報告しようと電話をしたのです。すると、ちょうど球団のフロント職員を募集していた時だったんです。
選手ではなく、今度は職員としてアルビレックスBCの力になり野球界に貢献できる――それはとてもありがたいことでしたし、運命だと感じる瞬間でもありました。その後面接を経て正式に球団職員として採用されました。現在は営業部で担当スポンサー様とのやりとりをはじめ、試合当日の運営や子どもたちに野球を教える野球塾のコーチとして、チームを支えながら野球の普及活動に努めています。子どもたちに野球を教えるのはすごく楽しい時間ですし、ひとりでも多くの子どもたちに野球を好きになってほしい、そして野球を通じて人間的に成長してほしいと思いながら指導をしています。
プライベートでは2019年に第二子が生まれました。三条市にある妻の実家に入り、妻とご両親、そして子どもたちで暮らしています。いわば、マスオさん状態なので(笑)、最初の頃は緊張しましたが、今となっては妻の両親に助けられている面も多く、みんなで楽しく暮らしています。特に小さな子どもを持つ私にとって、新潟は非常に子育て環境が整っていると思います。公園や屋内で子どもが遊べる施設がありますし、自然がたくさんある中で育てられるのは新潟のよさだと感じています。いつか父親として、自分の子どもたちをアルビレックスBCの試合に連れていきたいと思っています。そして、自分が球団職員として仕事をしている姿を見せたいです。
オンもオフも充実した新潟での暮らしですが、その中で一番感じるのは、やはり新潟の人のあたたかさです。今はもう閉店してしまったのですが、長岡市にどさん亭というラーメン屋さんがあり、店主ご夫婦でアルビレックスBCを応援してくれていました。私が選手だった頃に大変お世話になったお店で、当時は僕ら選手が食べに行くと、たった500円でお腹いっぱいに食べさせてくれたのです。選手のことを心から大切にしてくださいましたし、今も感謝しかありません。そんな風に新潟では人のあたたかさを感じることが多いですし、選手として過ごした3年間でそれが自分の中に植え付けられていたのかも知れません。だから「新潟ならやっていける!」と考えられたのだと思います。
アルビレックスBCの2019年シーズンスローガンは「縁」でした。私はまさにその縁と、新潟の人たちのあたたかさのおかげで今ここにいます。選手時代に初めて新潟に来てから今まで、たくさんの方々に出会い支えていただきました。このニイガタビトのインタビューにしても、球団職員としての仕事を通じて出会った方が私を推薦してくださったおかげです。これからもチームスタッフとして、ひとりの野球人として新潟での「縁」を大切に仕事も暮らしも楽しんでいきたいです。そして、野球の面から新潟県を盛り上げていきたいです!
このページをSNSで共有する