2018.06.29 掲載
株式会社タナベ 技術本部
渡辺 卓誠(わたなべ たくみ)さん
糸魚川市
1995年、長野県生まれ。5歳のときに父の仕事の転勤で糸魚川市へ。小中高時代、糸魚川市で生活し、福島大学への進学を機に糸魚川市を離れる。就職活動中、家族との暮らしと自分の将来を考えるようになり大学卒業後は、糸魚川市へ戻り、地元のシステムエンジニアリング会社に就職。現在は、産業用機械の設計者として図面製作を行う。プライベートでは、大学卒業後に自分の育った地にたくさんの魅力があるということに気づき、糸魚川市内のジオサイト巡りや、海や山に囲まれた自然を楽しんでいる。
5歳から高校卒業まで糸魚川で過ごしたわけですが、大学進学時には、「地元に残りたい」とも「都会に行きたい」とも思わず、自分の学力から行けるところを探す、という流れで福島大学(福島市)へ進学しました。大学では理工学類に所属し、主に地球環境や産業と人の生活の関わりについて研究しました。学業以外では、高校時代から続けていたバンド活動を続け、バンドサークルで音楽に親しんだり、休みの日には定期的にライブをしていました。
学業とサークル活動の他には、福島でしかできない活動をしようと考え、福島大学の学生有志による、東日本大震災の復興ボランティアに参加していました。
震災当時は高校生で、糸魚川はほとんど揺れなかったことから、福島に行く前は、被災地はテレビの向こう側の世界でしかありませんでした。しかし、大学入学後、震災により自宅が警戒区域に指定されている友人や、石川県への避難経験がある友人に出会い、震災当時の話を聞いたこと、復興ボランティアで、仮設住宅で暮らしている方の話を聞いたり、外出の機会が少なくなっている子供たちと一緒にハイキングに行ったりしたことで、震災が自分の身近なところで起きたことのように思えてきました。震災から2年が経って、ようやく警戒区域が解除された地域へ行く機会がありました。そこでは、津波が起きた当時のままの様子が残り、あまりにも無残な光景が広がっており、胸が痛み言葉が見つからなかった経験があります。
そのような経験をしたことから、卒業研究で新潟県と福島県における、地域防災計画とその取組みの比較を行いました。国や自治体が考える防災計画だけでは自然災害に太刀打ちできず、災害発生時には個々の人が自らの命を守る行動が重要になり、そのために東日本大震災という出来事を風化させずに語り継ぎ、防災意識の醸成が必要であると学びました。
福島県はとても住みよい街でしたので、正直とても快適な生活ができていました。ですが就職活動はほとんど新潟県で行いました。
現在、両親は糸魚川で元気に過ごしていますが、のちに介護が必要になることもあるだろうと考えており、そのときに福島と新潟では距離があるため、何かあった時にすぐには駆けつけられないという不安がありました。また、個人的にも、高校からおつきあいをしていた彼女がずっと新潟にいて、彼女を福島に呼ぶ、というよりも自分が地元に帰る方がお互いに良いだろうと。将来的に結婚をして、子供ができて、ということを考えると、慣れない地域よりも、自分が育ち、慣れ親しんだ環境で家庭を築くほうが、安心して生活できるだろうと考えました。その結果、新潟へ帰ってくることを選んだ方が良いという結論に至りました。友人たちからは「若いのに考え過ぎだろう」と言われていましたが(笑)。
しかし、いざ就職活動を始めると、高校まで新潟県で生活していたにもかかわらず、新潟にどんな仕事があるのかもわからず、とても苦労しました。
大学で、人と産業の関わりについて学んでいたこともあり、インフラ整備など人の生活に直結した仕事について興味を持ち公務員の仕事も視野に入れながら就職活動を行いました。その過程で、地元企業である株式会社タナベに出会いました。
糸魚川で創業し、会社の規模が大きくなっても本社を移すことをせず、今も糸魚川に残り、雇用を生みつづけていて、取引先は日本国内にとどまらずアジアやアメリカ、ヨーロッパなど、海外にまで広く、世界に技術や製品を発信している。自分が生まれ育った町から世界に技術を発信している、そんな糸魚川の会社に私も働いてみたいと思っていたところ、縁があり就職することができました。
株式会社タナベでは、「各種自動組立設備」や「省力化機器」、「工場の自動化」をカタチにして省人、省力を実現したり、過熱水蒸気技術の製品化を行なってCO2の排出削減や省エネ技術を開発するなど、人とモノ、環境に配慮した産業用機械の製造を行なっています。
私は技術本部という部署に所属し、日々、産業用機械製造のための図面製作を行っています。最近、海外輸出用の、電線製作時に使う熱処理機械の設計を担当しました。図面設計だけで2ヶ月ほどかかり、図面設計から製造まで合わせると、製品が出来上がるまでに半年ほどの期間を要しました。一般の人の目には、ほとんど触れないものですが、それでも自分が設計したものが実際にカタチになった瞬間というのはとても嬉しかったです。
大学で学んでいた分野とはまったく違うことに今取り組んでいるので、日々、覚えることが多くて大変な面もあります。ネジひとつを例にとっても、微妙な大きさや穴の広さなどの規格を覚えることも多いですし、そのネジのサイズが少し合わないだけでも再製作ということになります。本当に細かいところまで気が抜けない仕事だと感じています。わからないことを丁寧に教えてくれる上司の方々のように、早く一人前になるのが今の目標です。
現在は、実家で両親と3人暮らしをしています。4年間の大学生活では一人暮らしをしていたので、炊事や洗濯、掃除などの生活を支えてくれる両親には、改めて感謝をしています。
大学生になると一気に見る世界も住む世界も広がりました。そうして、卒業後に新潟に戻ってくると、高校まで生活していた時よりも、充実した新潟での生活を楽しめていると思います。休日は地元にいる友人と海や山に出かけたり、糸魚川のジオサイト(※)を見に出かけたりしています。海岸に打ち寄せられたホタルイカの身投げ(浜に打ち上げられる様子)なども見に行ったりしましたね。まだまだ地元でも知らないことが多くそれについて知ることができるのが楽しいです。あとは、さすが米どころというだけあって、お米がおいしいということも、一度県外で生活したからこそ実感できるのだと思います。
(※)ジオサイト
地質や文化・歴史を感じることができる場所を「ジオサイト」と呼んでいます。糸魚川市には24のジオサイトがあり、それらをめぐることで、日本列島の形成や糸魚川の文化・歴史を楽しく学ぶことができます。
私の中では、「知らない」ということはとても不安なことですが、逆に知らなかったことを「知る」ということが喜びでもあります。
大学生のときに授業で屋久島にフィールドワークに行ったのですが、屋久島の標高によって植物の植生が違うことに驚きました。それぞれ適した環境で育つ植物があるということを知ったのも目にしたのも初めてでしたし、縄文杉も実際に目にすることができました。自分にはまだまだ知らない世界があって、それを知ることができるという喜びはとても大きいです。
新潟においても、まだまだ知らないことだらけですし、それだけ魅力のある場所です。また、私のように一度県外に出ると、新潟県以外を知っているからこそ客観的に新潟を見ることができ、それにより新潟の魅力を感じることができます。進学で県外に出ている人は、まずは改めて新潟に関心を持つ、ということだけでも自分の地元をさらに好きになるきっかけになると思います。
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