2016.11.02 掲載
「乙まんじゅうや」11代目 和菓子職人
久世俊介さん
28歳 胎内市
胎内市(旧中条町乙地区)出身。3兄弟の長男。子どもの頃から店番や配達など家の手伝いをしながら育つ。中学生の頃に通っていた学習塾の講師が「この校舎の国語の平均点を新潟県内1位にする」と宣言し、見事に実現。有言実行する姿に憧れ、夢は塾講師になった。大学に進学後、勉強と遊び・塾講師のアルバイトに全力で取り組む4年間を送り、卒業後は、全国に教室を持つ学習塾に就職。その後2012年7月にUターンし、実家である乙まんじゅうやに就職。11代目として乙地区に足を運んでくださる方におもてなしの気持ちを伝えるべく奮闘中。
実家である乙まんじゅうやは創業212年を迎え、私は11代目を継がせてもらっています。
意外に思われることもありますが、実は両親から家業を継いでほしいと言われたことはなく、また、兄弟全員が「誰も継がないときは、自分が継ごう」と思っていたので、就職して先を考える時期になるまでは、特に話し合ったこともありませんでした。
中学生の頃に通っていた塾で国語の講師をされていた加藤先生という方がいらっしゃるんですが、その先生が恰好よくて、塾講師になることが夢でした。
私が通っていた校舎の国語の平均点は、県内で下位でした。私自身も国語が好きではなく、面白くないなあと思っていたんです。でも加藤先生が「俺がこの校舎の平均点を新潟県内1位にする!」と宣言して、数か月後には本当に1位になったんです。その時まだ25歳くらいの若さで有言実行してしまう姿が本当に恰好よくて、私の憧れになりました。
加藤先生とは中学校を卒業した後もやり取りが続いて、センター試験の時にアドバイスをもらったこともあったし、結婚式の時には、友人がサプライズでビデオメッセージをもらったりしてくれました。大学を選ぶときも学部を選ぶときも、加藤先生との出会いが私に大きな影響をくれました。
大学は、教育に力を入れている県外の大学に進学しました。両親も県外の大学に通っていたこともあり、私たち子どもにも「新潟以外の場所も知った方がいい」と、県外に出ることを勧めてくれました。
母からは「勉強もいいけど、せっかく大学に行くんだから本気で遊びなさい」と言われ、その言葉の通り、寝る時間を削って(笑)本気で遊びました。原付で静岡まで行って海鮮丼を食べたり、紅葉が見たいと思って授業終わりに新幹線に飛び乗って京都に行ったり。やり尽くせはしませんでしたが、その時しかできないことは本気になってやったので、大学で過ごした日々は本当に楽しかったです。
また、塾講師のアルバイトでは、「ひとりひとりを見ること」の大変さを感じました。高校・大学受験を乗り越えてきたので、自分の勉強方法は確立していたし、それで自分は成績が伸びたから正しいと思っていたけれど、塾で働くようになってひとりひとりに合う勉強方法の見つけ方や、伝え方は違うということを痛感しました。うまくいかない時は生徒と一緒に落ち込んだし、でも成績が伸びたときや、志望校に合格したときは自分の時よりずっと嬉しかったです。人のことで泣いたのはこの時が初めてでした。教育という仕事は本当に面白いと思いましたし、加藤先生のやっていたことは本当にすごいことだと改めて感じました。
就職を考えるときも、両親からは「仮に家業を継ごうと思っていても、すぐにうちに入るのはやめなさい」と言われました。大学と同様に、外の会社を知ることも大切だと伝えたかったんだと思います。自分自身としては高校生の時からお付き合いしている彼女が新潟にいてUターンするつもりでいたこともあり、県庁職員を目指して公務員試験の勉強をすることにしました。
ただ、実際には公務員試験を受けることはなく、私の就職活動は終わりました。自分の仕事にやりがいをもって活き活きと働く社員のいる会社に出会い、ご縁あって入社することになったからです。彼女には待たせてしまって申し訳なかったですが、もう少し待ってほしいと頼んで、引き続き埼玉で働くことになりました。
会社は関東を中心に直営校を経営していて、私は埼玉校舎勤務で、約130人の生徒を受け持ちました。大学時代も塾で講師のアルバイトをしていましたが、直接指導ではなく、衛星授業の習得具合や進路相談など、担任業務がメインでした。学習塾なので、志望校合格を目指すことは必須なんですが、「大学に入ることがゴール」という教育ではなく、「大学に入ってから・社会に出てから何を頑張るのか」というところまで教育します。また、「志を持って、社会に貢献する」という企業理念もとても好きで、自分の仕事に対する価値観を変えてくれたと思います。1年半でしたが、自分にとって「働く・対価を得る」ことの意味を考えさせてくれた貴重な時間でした。
乙に戻ってきたのは2012年7月。家族だからと甘えた感情をもって働きたくないと思ったので、父親に頭を下げて入社させてもらいました。
子どもの頃以来の作業場では、慣れない反復作業の繰り返し。餡の炊き方や作業の様子を見ながら覚えていきましたが、よく分からないモヤモヤした気持ちを抱えながら働いていました。私自身はいち従業員という感覚でしたが、他の従業員の方からすると創業一家の一人なわけで、家族にも職場の仲間にもこのモヤモヤは話せずにずっと不安な気持ちを抱えていました。
伝統を守ってまんじゅうを作り、食べてもらうことはもちろんすごいことだし、周りの幸せに貢献することだと思うけれど、それって他のお菓子屋さんでもできることじゃないかと思ったんです。仕事というのは「志を持って、社会に貢献する」ことだと思っていたのに、まんじゅうを作って売るだけでいいんだろうか、地元はこんなに閑散としてしまっているのに、ただ同じことを繰り返す日々でいいんだろうかと。今までと生きるスピードが違う気がして、もっとやれるはずなのに、と不安になっていました。
そんな時、商工会青年部に入り、米粉を使ったお菓子を作ってほしいと言われ引き受けたことがありました。何かしなきゃと思っていたこともあって、引き受けたんですが、これがなかなか大変でした。当初は皮に米粉を使えばいいと思っていましたが、社長に乙まんじゅうができるまでの工程は絶対に変えてはいけないと言われました。
それで考え出したのが、乙まんじゅうに米粉をつけて揚げた商品。これは伝統を一新したものではなく、あくまで既存の乙まんじゅうから派生したものにしました。ところが、常連のお客様からは「伝統を壊して店を潰す気なのか」とお叱りを頂きました。他のお店と同じように新商品を出したら喜ばれると思っていたので正直驚きました。けれど諦めずにイベント出店したり、メディア・新聞に出るようになって半年くらいかけてやっと認められ始めました。
それくらいから気持ちにも余裕が出て、乙まんじゅうやという存在はスペシャルなんだと分かったんです。新商品が出てお叱りを受ける店って多分うち以外にはないと思うんです。それが何を意味するのか。どれほど昔からこの地域の人たちに見守られてきて、どれだけこのまんじゅうのことを気にかけてくれているのか。212年間も思われるたったひとつの商品なんてないんだろうなと気付くことができました。新商品を作って1年、お叱りの言葉がなかったら私はきっと気付くことができなかったでしょう。
乙まんじゅうやの使命は「伝統を繋ぎ続けること」と「地域を盛り上げること」だと思っていて、その思いは変わっていないのですが、初めの頃と今ではアクションの仕方が大きく変わりました。
当初、乙を知ってもらうために、とにかく乙まんじゅうを外で売ればいいと思っていたんです。商品名にも入っているから、売れば売るだけ名前を知ってもらえて活性化につながると思っていました。けれど、外の人から「乙まんじゅうやは昔から乙宝寺に来る参拝客をもてなしていたんだろうね」とか、「今の久世君は売ることを大事にしているけど、乙に来てくれた人には何をしているの?」と言われて気が付いたんです、何もしていないと。
何よりも乙に来てくれた人が、もう一度ここに来たいと思えるようになるためのツールが乙まんじゅうなんです。製法を守っていくことは当然の大前提ですが、乙まんじゅうという存在を使っておもてなしをするという事実を変えないこと。そのために伝統を繋いでいくことが大事なんだと思いました。
今年1年かけて送迎やガイド、休み処を整えたので、200年前のように参道を人が行き交うような乙を目指して、乙宝寺と協力して様々な企画を実行していきながら、ここでしかできないおもてなしを一緒にやっていこうと思っています。
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