2013.11.20 掲載
映像ディレクター
平野雄大さん
37歳 新潟市
大学で建築設計を学ぶ。4年の時に建築CADを作成する中で、映像に興味を持ち、内定していた大手ゼネコンを辞退。東京の制作プロダクションに入社。7年間、制作会社に勤務し、30歳のときに帰郷。現在はNSTの関連会社である株式会社コムで番組のディレクターとして働く。
高校卒業後、長岡造形大学の建築学科に進学。自分の将来について、建築会社に勤め、ビルや家の設計をしている姿を漠然と想像しながら生活していました。卒業間近の時にパソコンの※CADで建築物の中を、視点を変えて自由に見る事ができる世界を体験。もともと映画が好きだったこともあり、一気に映像制作に目覚めてしまいました。とにかく映像制作会社の求人を探し、東京で就職先を決めました。内定していた地元の建築会社を辞退し、東京で仕事をスタート。両親からは、不思議と反対はされませんでした。もしかしたら、その時すでにいつかは新潟に帰ってくるだろうと思われていたのかもしれません。
※CADとは、コンピュータ支援設計とも呼ばれはコンピュータを使用して設計や製図をするシステム
一緒に入社した同期は芸術科や美大出身者で、私のようにまったく映像制作の経験が無い者はいませんでした。入社したときにアシスタントとして付いたディレクターは社内でも特に厳しい人で、歴史のある制作会社だったこともあり、アシスタントに付くと独り立ちするまで、アシスタントが代わることはありません。社内では大体20代で担当させて貰うことはなく、30歳になってようやく1本任されました。それが一人前になった証でした。自分の中で30歳になったら、新潟に戻るつもりだったことと、仕事を任されるようになったことで自分の中での最初の目標をクリアしました。社内ではようやく仕事ができるようになったのに、なぜ辞めるのかと反対されました。でも、ここで独り立ちできたことで、どこに行っても仕事ができるといった根拠のない自信と、一人っ子ということもあり、実家に帰るならこのタイミングかなと思い帰ることにしました。
新潟に戻って来て入社したのが、現在勤めている株式会社コムという映像制作会社で、主にNSTの番組制作をしています。新潟に帰って来て一番驚いたことは、25歳、26歳くらいで番組ディレクターをしている人がいることでした。自分が30歳になるまでほとんど何もさせてもらえなかったことを考えると本当に驚きでした。それと分業が当たり前だった東京時代と違い、取材のアポイントや弁当の手配までディレクターがしなければならず、慣れるまで4ヵ月くらい掛りました。
やるべき範囲が多いのは番組づくりも同じで、最近は3本、4本並行して作業をすることが当たり前になっています。ですが仕事がきついという事はなく、段取りさえきちんとしていれば何とかなるといった感じです。むしろ、忙しくないとかえってリズムが変わってしまうような感じもあります。
仕事は番組制作が中心なので新潟県内のさまざまな場所に行き、魅力的な人に出会うことが多いので充実しています。東京時代は桜が咲いていても気付かないような毎日を過ごしていたように記憶しています。今は四季を肌で感じられる新潟を楽しんでいます。
休みの日は、社内の仲間と釣りに行ったり、アルビレックス新潟の試合をゴール裏で観戦したりしています。最近、娘も生まれたので子どもと過ごす時間も増えました。
私はずっと映像制作会社しか経験がないので、それしかアドバイスできないのですが、新潟はなんでも一人でしなければならないことを除けば、仕事自体は特に変わることはありません。むしろこの業界は東京での制作経験者が多いので、悩みも共有できるので安心して帰ってきて欲しいと思います。経営者ではないのではっきりとは言えませんが、業界全体の人手が不足している感じもあるので、意外に求人はあるように思います。
やはり友達がいる。家族が近くにいるというのは安心できます。結婚してまだ数年ですが、孫を見せに頻繁に実家に帰ることができるのも、近くに住んでいるからこそできることです。すこし変な言い方になるかもしれませんが、「生みの親」が両親なら「育ての親」が会社の上司や先輩だったのかなと思う時があります。「新潟で生まれて、東京で育てて貰って、新潟に帰って来た」という感じです。新潟に帰ることに必然的なモノを感じていますし、いまはとても良かったと思っています。
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