2018.11.06 掲載
日比野音療研究所代表取締役、作曲家・サックス奏者
日比野 則彦(ひびの のりひこ)さん
新潟市
作曲家、音楽プロデューサー、サックス奏者、そして事業家といくつもの顔を持ち、国内外で活躍する日比野則彦さん。新潟暮らしのきっかけは、仕事を通じての新潟の人たちとの出会いと、新潟市出身の奥様との結婚でした。「新潟は人の優しさを感じられて、人間らしくいられる場所」と熱く語ってくれた日比野さんのお話を2回にわたって届けます。第1回目となる今回のインタビューでは、音楽家としての自身のプロフィールを中心に、仕事のこと、新潟との出会い、そして移住するまでの経緯をお聞きしました。
兵庫県宝塚市で生まれ育った日比野さん。大阪大学を卒業した後、音楽家としての夢を叶えるべくサックスプレイヤーとして活動を始め、演奏活動とアルバイトを両立していました。しばらくして、音楽家としての経験を積むためにアメリカ・ボストンにあるバークリー音楽大学へ3年ほどの留学をしました。そこで、時代の流れもあり、コンピュータを使ったゲーム音楽の制作を学んだのでした。その後、1999年に日本に帰ってきた日比野さんは、ゲームメーカーに就職をしました。「ちょうど、日本のゲーム業界では、PlayStation2が発売された後だったこともあり、それまでのゲーム音楽よりもハイレベルで生演奏に近い音楽が主流になりつつありました。それで、生楽器とコンピュータ音楽の両方を使ってゲーム音楽を作れる人材が求められていたのです。私は特段ゲームが好きだったわけではないのですが、アメリカ留学で学んだ知識と技術を活かせると思い、ゲームメーカーに就職したのです」。そこからゲームサウンドクリエイターとして仕事をするようになり、そのメーカーの代表作の音楽も担当。ゲーム業界の第一線で活躍しました。
ゲーム音楽の分野でその才能をいかんなく発揮し、多くの作品に携わり名声を手にした日比野さんでしたが、仕事を続ける中で徐々に自身の気持ちが変化していきました。「手掛けるゲームのジャンルによっては、戦争や対決、敵を殺すというものも多いわけです。当然ですが、時代と共にゲームの内容やクオリティが高まれば、それに合わせてゲーム音楽も進化する必要があるわけです。本物のオーケストラが奏でるような臨場感があり、ゲームをさらに夢中にさせるために作り出す音楽は、どうしても刺激的なものが多く、作り続けているうちに、私自身が疲弊していきました。そして、これは“僕がやるべき音楽なのか?”と考えるようになったのです」。
そんな思いもあり、新たに癒しの音楽を作ることに向き合い始めた日比野さん。ちょうどその頃、ゲーム音楽の記者であり、薬剤師でもあるアメリカ人の友人からハープセラピーという音楽療法を見に来ないか?という誘いがあり、再びアメリカに渡ったのです。「そこで目にしたハープセラピストという仕事に衝撃を受けました。重い病気で治る見込みもなく、死を目前にして病院のベッドに横たわる患者さんのそばで、ひとりのハープ奏者がその人の呼吸に合わせるように、ゆっくりとハープを奏でていたのです。それはまるで天国へと安らかに導くように響いてくる音楽でした。それを見たことで、私の音楽への向き合い方は180度変わったのです」。
アメリカでのハープセラピストによる音楽療法の現場を見たことに加え、知人がガンとの闘病の末に亡くなったこともあり、病気で苦しむ人たちに癒しや安らぎを与えるような音楽を生み出すことを仕事にしたいと思うようになった日比野さん。「その頃から開発に取り組んだのが、オリジナルの湾曲板音響システムを取り入れ、私が作曲した癒しの曲を収録した舟の形をした音響スピーカー、凛舟(りんしゅう)でした。桐材を使い、かなり手間のかかる帆船の形を手作業で制作してくれる職人を全国で探していたのですが、なかなか見つかりませんでした。それを唯一、引き受けてくれたのが新潟県加茂市の桐たんす職人の方だったのです。それが仕事の面での新潟との出会いでした」。
2010年に新潟市出身の奥様と結婚したこともあり、仕事の面でもプライベートでも新潟とのつながりが生まれました。「結婚当初は妻とふたり、東京都内で暮らしていたのですが、凛舟の制作が本格化したことと、2013年に新潟市で、病気を抱える方やそのケアに携わる方に向けたハートケアコンサート【天上の音楽】を開催したこともあって、徐々に新潟との結びつきが強くなっていきました」。
2013年の【天上の音楽】コンサート開催時には、新潟での初開催であり、かつ新潟に直接の縁があるわけではない日比野さんが企画したコンサートにも関わらず、新潟の企業や団体の方が様々な形で力添えをしてくださったそうです。「同じ年に都内でもコンサートを開催したのですが、都内ではどの企業や団体もビジネスとしてのうまみがあるかないかで判断されることが多く、協賛を獲得するのは本当に難しかったです。しかし、新潟では単にビジネス面だけではなく“よい取り組みなので協力しますよ”とか“新しいチャレンジを応援したいので”という声をいただき、人のあたたかさや助け合いの文化を身をもって感じることができたのです」。
生まれ故郷の兵庫、東京、海外もいろいろな国に行ったけれど、これほどまでに人の優しさやつながりを感じることができた場所は新潟だけだったと言います。「加えて、新潟は新幹線や空港、港などの交通インフラが整っていますし、にも関わらず都市機能の中枢部分と畑や田んぼなどの農業エリアが非常に近い距離にあって、食糧の自給率も非常に高い。それは素晴らしいことだし、本当に住みやすい場所だと感じました。それで、2014年から家族で新潟市に移り住んだのです」。
新潟の人のあたたかさや生活環境のよさに魅力を感じ、新潟市に移住した日比野さん。
次回は家族と新潟で数年暮らしてみて気が付いたこと、またそこから見えてきた今後の夢などをご紹介します。お楽しみに。
このページをSNSで共有する