2018.10.23 掲載
vol.2
オーサム・ビーチ・アーキテクト、小竹屋旅館 他
杤堀 耕一(とちぼり こういち)さん
柏崎市
vol.2
1970年生まれ、柏崎市出身。地元でハンドボールに熱中する学生生活を送り、大阪芸術大学へ進学。卒業後は東京のマーケティング会社でキャリアをスタート。領域は様々ながら、一貫して企画やマーケティング、事業開発等に携わる。サラリーマンとしては、誰もが知るキャラクター会社でキャリアを終え、2009年柏崎市にUターン。現在は地元の観光等に関わりながら、実家の新規事業の準備を進めている。
前回は、私が現在どんな仕事をしているのか、ご紹介させていただきました。
今回は、当時はまだ肌が普通の色だったサラリーマン時代のお話と、Uターンしてサイダーを作り始めた頃の話です。
1970年、柏崎の海辺の小さな町に生まれました。父は瓦職人、母は元助産師の専業主婦、祖父は山あいの村からこの地に出て、増え始めていた海水浴客相手の商売を始めていました。私が生まれる頃には、父も瓦職人と夏の民宿を兼業する生活になっていました。
海水浴場の海辺の町で高校まで暮らし、進学先は、小さい頃から手先が器用で絵や工作が得意だったこともあり、自分の可能性を試すべく大阪芸術大学を選びました。実は、苦手な英語の受験勉強から逃れるためでもありました。
大阪の天王寺で一人暮らしをしながら、大学で造園やランドスケープ(景観)デザインを学び、90年代のサブカルチャーを謳歌した学生時代は、自分のアイデンティティを確立する上でとても重要な時期となりました。
当時よく行っていた難波のギャラリー「キリンプラザ大阪」は、のちにビル全体のリニューアル企画に自分が携わることになりました。とても嬉しかったのを覚えています。高松伸設計のアバンギャルドなビルは、今はもう存在しません。
大学の恩師の紹介で、東京の小さな企画会社に就職。メインクライアントは当時のビールメーカー最大手企業です。ここではマーケティングや調査、商品開発、編集などを実務の中で学ばせてもらいました。ユニークな仕事も多かったのですが、最も思い入れのあった仕事が地ビールのコンサル事業でした。
マイクロブルワリー(小規模な醸造所)解禁に伴い、私が在籍した会社も、地ビールビジネスに参入することになりました。当時、マイクロブルワリーの事業開発ノウハウを持つ企業は限られていて、社長と二人で全国からの依頼に応える日々が続きました。実現しなかったものも含めると30社近い案件を担当したと思います。
ここで、事業開発や商品開発に必要なコンセプトやミッションの作り方、デザイナーや建築家、商社などとの協業を多数経験し、プロジェクトマネジメントの基礎を学びました。
その後、業務提携や合併を経て会社は大きくなったのですが、約10年勤めたのちに、誰もが知る有名なキャラクターを扱う会社に転職することになります。
この会社では、主にプロモーションに関わる業務に携わり、イベントの企画や現場にとにかく数多く関わりました。日本中のドームを回る夏休みのイベントツアーは、その準備の大変さはあるものの、毎日数万人を集客する規模に、それまで味わったことのない高揚感を感じました。世界的に著名なキャラクターともなると、その反響はすさまじく、全国の都市部、特に首都圏で開催されるイベントは、時に警察にサポートしていただくことになるほどの動員力を持っていました。
キャラクターのライツ(権利)を扱う部署に異動後は、映画やテレビ番組の制作に関わり、ここでも夏休み期間中に、全国で400万人を動員する規模のコンテンツに参画させていただきました。
サラリーマン時代は、仕事中心の毎日を送り、特に転職後は仕事の充実感も相まって、私生活に支障が出るほどに働いていた気がします。そして、気が付けば三十代でもアラフォーと呼ばれる年齢に。このままサラリーマンとしてキャリアアップの険しい道を進むのがいいのか、別の生き方にチャレンジするのか、もはや判断を先延ばしできる年齢ではなくなっていました。
サラリーマンとして会社や上司に評価を託し続ける不安と、新しいことにチャレンジする不安、どちらにも勇気が必要でしたが、一度きりの人生をどう生きるか、と自問して、後者を選択しました。自分の人生は自分で決める。一度しかない人生に、自分らしさを。全ては自分のために。そんな思いを固めて、辞表を出して新潟にUターンすることにしました。2009年6月です。
Uターン直後、これまでの生活のペースや消費ペースを変えられず、かなり苦労をしました。特に、それまでのサラリーマン時代と比較して非常に生産性の低い日常に慣れるのが、一番大変でした。ありあまる時間の中でとりかかったのは、オリジナルサイダーの企画です。
観光客を相手にした土産物販売店をのぞいても、朱鷺やコシヒカリ、笹団子を用いた商品ばかりで、地元らしい商品、地元で作られた商品の構成比が極端に小さいと感じたことがきっかけでした。
ここでは、地ビールビジネスで身につけた能力が活きました。冬の間に図書館に通って、まずは地域の歴史や特徴ある出来事、産品などを調べる中で、「日本海側海水浴場発祥の地」という埋もれていた史実を見つけました。その背景を調べ、海のサイダーというコンセプトをつくり、約半年の準備期間を経て2011年6月に柏崎のご当地サイダー「鯨泉(げいせん)」を発売しました。
発売にあたって、商標を登録し、プレスリリースを書いて、記者を集めて商品発表会を開き、商談会に参加し、SNSを使って情報発信をする、という一連の業務も一人で行いました。サラリーマン時代の経験がとても役に立ちました。
つい先日、海水浴場開場130周年を記念して新フレーバー「サンセットオレンジ」を発売しました。これもコンセプトに沿いながら、海に沈む夕日をイメージして商品開発したものです。
こうした開発は比較的得意な方ですが、営業の経験のない私は、セールスが未だに苦手で、とても苦労しています。
地元発の商品が観光客向けに販売されていない、という気づきは、地元ではあまり気にとめられていないようでした。同様に、地元が持つ様々な価値が、観光や仕事で訪れる人達にちゃんと届けられていない、とも感じました。
こういう感覚は、「外の目」とも呼ばれるもので、地元に住み続けている人達は、なかなか発想に至らないものです。また、ビジネスとしての観光という面でも、観光や周辺の産業をいかにビジネスとして成功させるか、という視点が弱いと感じます。行政がそうであることは、なかば仕方がないことと思いますが、公益法人、一般法人や民間も、事業と名のつく取り組みはしているものの、実際にきちんと成果をあげ、ビジネスとして成立している案件は多くないという印象をもっています。
仕組みの問題もありますが、やはり人材の問題だと感じます。きちんとビジネスとして事業を立ち上げ着地させられる基礎的な能力は、どんな小さな案件であっても不可欠です。さらに、「外の目」が備わっていれば、なお良いのではないでしょうか。
いくつかの観光系人材育成プロジェクトに参加させていただきましたが、UターンやIターンの人材が活躍できる領域は、こういうところに広大に広がっていると思います。
この「外の目」は、地域に入り込み長く生活すると効果が薄れていきます。私の「外の目」も、いよいよピントが合わなくなってきている、今日この頃です…。
次回は、現在の家族のことや今後の夢について、お話したいと思います。
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