2008.10.17 掲載
新潟県、各地のまちづくりなどをモチーフにした映画「降りてゆく生き方」が、9月27日、青山海岸での撮影でクランクアップ!新人ながら準主役に抜擢された俳優・森太熊さんが、新潟で出会った人を語ります。(第6話「まちづくり俳優・森太熊がゆく新潟よそもの紀行1」の続編です)
新潟に移り住んで半年あまり。
数えきれない人にお世話になって来た。
新潟の魅力をあげると、米が美味い、水が、酒が、魚が、空気が美味い、景観が素晴らしい、橋が、川が、海が、夕陽が・・・・・いろんな事を新潟の人は言う。
しかし、僕はそれ以上に素晴らしいのは「人間」であると断言する。
新潟の人はどこよりも温かく、どこよりも純粋で、どこよりも我慢強い。
僕は新潟に来て、「俳優になる」という夢が叶った。
しかし、それは僕の力ではなく、このまちに棲む、多くの人が僕と一緒に、僕の夢にワクワクしてくださったからだ。
僕はこのまちに、皆さんに御恩返しがしたい。
ここは、夢が叶うまち・新潟。
ここにはワクワク感がある。
夢に一緒になってワクワクしてくれるあったかさがある。
そして広い天地が、夢の舞台を与えてくれる。
今では、この「夢が叶うまち」を世界にひろめることこそが、僕の夢となっている。
著名な方々はもちろんだけど、なにげなく入ったうどん屋や味噌屋のご主人、隣の家のお母さん、映画づくりを手伝いに来たにいちゃんからも、じつに多くのことを学ばせていただいた。今回は、会う度に僕がワクワクさせられるそんな人たちを紹介したい。
三っちゃんから電話が来ると、僕らはいろめきたち、全員が電話に耳をそばだてる。
「おまえたち、おかずが余ったから食べに来い」
ヤッター!いつも自炊をして、つつましやかな食生活を送っている僕たちにとって、三っちゃんからの電話は心のオアシスだ。新潟市黒埼にある高橋宅に行くと、いつも三っちゃんの仲間が集まっている。皆、三っちゃんの手作り料理が大好物なのだ。この家で飲む酒は美味い。まるで居酒屋の店長のように料理や酒を振舞う三っちゃん。あたかも店員のように食器を運ぶ僕たち。居酒屋みつよしでは皆が店員・皆がお客さんだ。三っちゃんの仲間にはいろんな人が居る。電器屋さん、銀行員、農家、主婦、中には三っちゃん宅に住んでしまってる人まで居る。皆が家族のように食卓を囲む。
新潟はまちづくりが盛んな街だ。新潟県の人は随分、郷土愛が強い。自分の“まち”にこだわる。郷土愛なんて考えたことも無かった僕は、新潟に来てから随分と考えさせられた。まちとは何だろう、まちづくりとは何なのだろう、と。その答えが、三っちゃん家の食卓にあった。
文句を言いながらも人が“まち”にこだわるのは、“まち”が「自分の人生のストーリーそのもの」だからなのだ。幾多のストーリーの集合体が“まち”になる。だから“まち”からは簡単に離れられないし、愛着も湧く。だから“まちづくり”とは一人ひとりが「自分の人生を一生懸命生きること」なのだ。
三っちゃんの家にはいろんな人が集まる。楽しい人、淋しい人、困っている人・・・・誰もが必死で生きている。そして三っちゃんと食卓を囲んで、明日からのストーリーを紡ぐ活力をもらって、家に帰るのだ。
だから僕らは三っちゃんの家を出る時にこう言う。
「三っちゃん、行ってきます!」
例えば火力、水力、風力、原子力、汽力、内燃力、太陽光、地熱、冷熱、MHD、核融合、コンバインドサイクル、燃料電池、熱電変換素子温度差、海洋温度差、波力、潮力、震動力、人力・・・・世の中には様々な発電方法がある。そのどれもが、限られた条件下で電気を発生させる。そして莫大なコストがかかる。もしも、どんな場所でも、低コストで電気を発生させることが出来たなら!!そんな夢のような夢に、本気で取り組んでいる男が居る。長岡で「ころく」といううどん屋さんを営んでいる小林壯六さんだ。68歳。良い年である。分別のあるお友達の皆さんは決まって「夢」を馬鹿にする。そういう声など歯牙にもかけず、一心不乱に夢を追う。そんなタイプの人間ではない。むしろ真に受け、傷つきながら、毎日一念発起。夢を疑う自分の心の弱さと戦いながら、研究所兼工場となっている自宅のガレージに籠っている。壯六さんには精神障害を持った御子息がいる。もともとは某大手自動車会社でエンジニアをしていたのだが、「自分が居なくなっても、将来、息子が食べていけるように」と、うどん屋さんを始めた。壯六さんは語る。「昔はどうして自分の所にこんな子が生まれたんだろう。この子さえ居なければと何度も思った。でも、ある時、気がついたんだ。人生の選択を迫られたときに、この子のお陰で最良の選択が出来たってね。この子は我が家に【福】を運んでくれるんだ」と。
そして今、自分の子供のためを超え、世界中の恵まれない人の為に彼は今、全く新しい発想の発電方法「重力発電」の開発に取り組んでいる。設計図を見てもよく分らないので、分かりにくく言えば、地球の横回転を縦回転に変え、地球が回る限り、永遠に回り続けるタービンを作ろうというのだ。これはもう、生命の創造に等しい。それを長岡のうどん屋の裏の小さなガレージでやっている。
重力は地球上、何処の、どんなに貧しい土地に行っても、必ずある。重力発電が完成されれば、人類の危機の大半は解決できるのではないか。世界中に笑顔を発生させる装置。それが重力発電なのだ。
僕は絶対に馬鹿にしない。出来ない。本気の人は怖い。怖いから人は馬鹿にしたり、笑ったりするのだ。僕は壯六さんの恐ろしさと向き合える人間でありたいと思う。
壯六さんは僕に二つ約束してくれた。一つは必ず「重力発電」を成功させること。もう一つは・・・
「太熊さん、この重力発電が完成して、俺の人生が映画化される時が来たら、主演・小林壯六役は必ずアンタにやってもらうよ」
僕はもしかしたら人類を救う男を演じることになるかもしれない。
「おーい、元気でやってるか?」と聞くと「おう!おまえの方はどうだ?」と答えるのだという。
塚本さんは佐渡の「伝統文化と環境福祉の専門学校」でコーディネーターをやっている。彼は木や草花と話が出来るのだという。にわかには信じがたい話だったが、塚本さんの真っ直ぐな目を見ていると、彼がアブナいおっちゃんではなく、純粋に草花と話が出来たのだという事が信じられる。いや「かつては出来た」と言うべきか。
高校を出て、東京の大学へ進学した。夢と学問を求めて大都会へ降り立った塚本青年。東京で暮らして数か月。異変に気付く。・・・・草花の声が聴こえない。小さい頃から友達のように語りあってきた彼らの声が、塚本青年には、いつの間にか聴こえなくなっていた。東京の草花は喋らないのか?それとも自分が聴こえなくなってしまったのか。そんな疑問が重くのしかかった。そんなある日の出来事だ。塚本青年の乗った電車に紙袋いっぱいの果物を抱えたおばあさんが乗ってきた。頼りなさそうなおばあさんの様子を彼はなんとなく心配して見ていた。おばあさんが何かに躓き、転んだ。袋一杯の果物は車内に散らばったが、周りの人間は誰も見向きもしない。青年は果物を拾っておばあさんに差し出した。その刹那、塚本青年の手が叩かれた。意外ッ!それはおばあさん。「これは私の林檎だよ!」・・・・しばらく茫然と立ち尽くし、翌日、青年は東京を後にした。塚本さんには夢があった。「人の心を科学する」こと。しかし、それは人の心が失われゆくまち・東京では出来ない。人間と自然が一緒になって暮らしている、あの佐渡にこそ人間らしい心、自分の学問はあるはずだ。僕は佐渡で潮風に吹かれながら塚本さんの話を聴いていて深く頷いた。佐渡の天地には人間を、心を育てる「場」がある、と。かつては政治犯と呼ばれた思想家や極悪人とされた革命家が流される土地であった佐渡。島でありながら大陸的なスケール感を持つこの場所は、今、新たなる人間教育の発信地となっている。
ただ、正直、ジェットフォイルの料金がもっと安ければいいのになとは思う。
古志光は僕らの仲間の一人で一緒に合宿しているメンバーの中では唯一の新潟県出身者だ。
彼とは長岡オーディションで初めて出会った。その時はこの優しそうな顔をした青年の目の奥に宿る深い闇に、誰も気付く事は無かった。いつからか古志は仕事を辞め、僕らと寝食をともにするようになった。彼は(もっとも、僕らは全員そうだが)今、無収入で映画製作~上映・プロモーションの手伝いをしている。まっとうな仕事を辞めた彼は語る。「ここには、絶望が無いんです」と。絶望とは何か。古志の家庭は、小さい頃から両親の中が悪く、経済的な状況も悪く、家の中には腐乱した食べ物がいつも転がっているという衛生的にも悪い場所だった。古志には中学校以前の記憶がない。自分の家は普通じゃない。それを必死に隠しながら中学校へ通って一生懸命勉強した。一番古い記憶を彼はそう語ってくれた。努力の甲斐あって高校は進学校へ入れた。しかし、両親が離婚、経済的にも破綻し、中退を余儀なくされる。17歳で5歳年上の女性と同棲を始め、古志は家を出た。夢も無い。希望も無い。金はもっと無い。女と職を転々としながら10年の月日が流れ、僕らと出会った。自殺はしない。怖いから。しかし、心から短命を望んでいる。彼にとって絶望とは「する」ものではなく、「ただそこに横たわっている」ものだったのではないだろうか。その「場」から逃れる術を知らぬ彼は、楽しい時も、病気の時も、笑っている時も、怒っている時も、寝ても覚めても、絶望と共に居た。
今、僕らの映画は「新潟県民の皆さんに、どれだけ歓んでもらい、ワクワクしてもらえるか」それだけを主眼において製作されている。この「なかま」と一緒に居るようになって、古志は初めて「自分以外の誰かの為に生命を使う」体験をした。人生にワクワクした。彼は地元には、自分よりもっと辛い境遇の人が沢山居るという。自分の友達の中でも、自分はマシな方だと言う。格差社会の申し子とも言える古志光。彼は今、社会の底辺からじわじわと変革の狼煙をあげようとしている。彼の情熱が新潟から日本中に飛び火する日は遠くないと、僕は確信している。
それ以上に古志が食事当番の時に作る料理がまずいことには頭を悩ませている。
紹介した4人の方以外にも、みなさんよくご存知の方を始め、本当に多くの方々からたくさんの気づき、刺激をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。
Q 今年1月に新潟へ来て半年になりますね。映画を通していろんな人と出会いがあったと思いますが、森さん自身の中で変化はありましたか。
A 大いにありました。新潟へ来る直前まで某大手企業の営業をやっていて、一応トップセールスマンだったんです。しかし結局、満足できず新潟で人と違うキャリアを積んでもっとすごい人間になろうと思っていた、上昇志向の塊でしたね。
まず新潟でやったことは、オーディションの準備でした。できるだけ多くの人たちに映画に参加してもらうことが求められていたので、なりふり構わず飛び込み営業でオーディションの告知をしました。全く知り合いのいない土地でしたので苦戦しました。でも困っていると応援してくれる人が現れる、それも無条件で。それまでは見返りのある確かな契約しか信じられませんでしたから、びっくりしました。一生懸命、一緒になって人集めしてくれたり、会場を貸してくれたり、ボクを泊めてご飯を食べさせてくれたり。衣服まで調達して頂きました。結局県内7カ所、延べ約2000人が参加するオーディションになりました。
このオーディションで繋がった方々が僕を支持してくださり、それがプロデューサーに認められ、映画に主演させてもらうことになった(!)のですが、その頃には、森太熊を輝かせることから、応援してくれた人たちを輝かせるために「森太熊という道具」を磨くんだと、努力の方向がすっかり変わっていました。今思うと東京にいた頃は、「自分の為」ばかり。
決して満たされない方向に向かって走り続けていたんだなぁと思いますね。
Q 今も新潟で暮らしていますが、これからの予定は。
A 新潟市内の一軒家を借りて、自称ボクのマネージャーたちと住んでいます。海のすぐ近くなので少し前まで、毎朝プライベートビーチ(笑)で泳いでいました。
今は、10月24日に招待されている東京国際映画祭での催しと、来年の上映に向けた準備です。この映画には、オーディションを受けられた方が、延べ2,000人以上は出演しています。一人一人のストーリーや情熱に感激した監督がその都度何度も(クランクイン後も現場で)脚本を書き換えてできた映画なので、新潟の人たちの思いがぎっしり詰まっています。新潟を皮切りに上映を成功させて、全国隅々まで上映が行われるようにしたい、現代に閉塞感を感じている多くの人たちに新潟の生き方を伝えていきたい、それが使命だと思っています。きっと何かが変わるはずです。それがボクの恩返しだと思っています。
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