2017.10.02 掲載
株式会社重川材木店勤務
木部 誠人さん
新潟市
今では1月1日の風物詩となった「ニューイヤー駅伝(正式名称:全日本実業団対抗駅伝競走大会)」。
北陸代表として出場経験のある新潟市の「走る大工集団・重川材木店」の名前を耳にしたことがある人も多いのではないでしょうか?
木部誠人さんは、この仕事と競技の両立の理念を掲げる異色チームに所属する25歳。
京都出身の木部さんは、箱根駅伝出場経験のある実力者。「陸上と建築の仕事を両立したい」と、2015年に新潟へIターンしてきました。
二足のわらじを履く木部さんの想いに迫りました。
木部さんは1992年、京都生まれ。小さな頃から運動が好きで、小学校のクラブ活動で夏はバスケットボール、冬は陸上をしていたそうです。「もともと陸上では短距離をしていました。けれど、小学校5年生の時に学校で行われたマラソン大会で優勝したのがきっかけで長距離の楽しさに気づきました」。それから、京都市の陸上競技クラブで長距離に専念するようになりました。
中学校に進学してからも、先輩からの誘いで陸上部に所属。中学3年生の時には3,000メートル競争で全国大会にも出場しました。駅伝の楽しさを知ったのもこの頃です。「自分のためだけでなく、誰かのために走る駅伝が面白かったんです。“次の走者のために”、“チームのために”がんばろうと思うと自然と力が湧いてくるんです。走るのは駅伝だけでいいくらい、駅伝が好きになりました」。
高校でも陸上部を選択。大好きな駅伝に熱中しました。
「中学、高校と県の駅伝大会は勝ち抜いたのですが、どちらも近畿大会止まり。全国に行けず、すごく悔しかったし、もっと続けたいという想いを持っていました」。悔しさをバネに陸上少年は、憧れの箱根駅伝(正式名称:東京箱根間往復大学駅伝競走)を目指し、関東の大学に進学。「高校の陸上部の先輩が千葉県の中央学院大学に進学したんです。その先輩を見るために来ていた中央学院大学駅伝部のコーチに自分も行きたいと伝えました」。その想いが届き、中央学院大学の推薦を勝ち取り進学したのですが、そこで待っていたのは想像を超える練習の厳しさでした。
「進学してから知ったのですが、中央学院大学は監督が厳しいことで有名でした。その厳しさは関東圏で1位2位を争うと言われるほど。20人入部した同級生も卒業までには半分以下の6人に減りました」。厳しい練習に心が折れかけそうな時、支えてくれたのは家族の応援でした。「当時、祖母が末期ガンと診断されました。そんな祖母や、関東の大学への進学を後押ししてくれた家族にどうしても箱根駅伝を走る姿を見せたかった」。
部員60名弱の中、箱根駅伝のメンバーに入れるのは16人。さらに実際にレースを走れるのは10人です。当時部員の中でも真ん中くらいの実力だったと言う木部さんですが、努力を積み重ね1年生で補欠に選ばれると、2年・3年生では7区を、4年生では6区を任され、念願だった箱根駅伝の舞台に立ちました。
「初めての年は憧れの舞台にわくわくしました。山奥なのに、歓声がすごくて。まるで地鳴りのようでした。病気の祖母がすごく喜んでくれて嬉しかったです。帰省すると“来年も、来年も”と言ってくれ、卒業するまで祖母は箱根で走る自分を見てくれました。大学卒業するとすぐに亡くなってしまったのですが、見守ってくれていたのかなとありがたかったです」。
陸上一色の生活を送っていた木部さんが進路を考え始めたのは大学3年生の終わり頃。「3年時の箱根駅伝で悔しい思いをしました。前の時に走った7区を任されたのですが、結果を求められるプレッシャーに押しつぶされて全然ダメだった。チームもシード権を逃してしまいました。とにかく悔しくて悔しくて、もっと頑張ろうと思いました」。悔しいと思えば思うほど、駅伝が大好きなんだと気付いたといいます。そして、大学卒業後も実業団に入り駅伝を続けることを決意しました。
駅伝部で寮生活を送っていた木部さんには、ささやかながら趣味がありました。「インテリアに興味があったんです。オシャレな家具や雑貨などが好きで、インテリア系の雑誌をよく読んでいました。それがきっかけで建築に興味を持つようになりました」。とはいえ所属していたのは法学部スポーツシステムコースと、建築とは全く関係のない分野でした。
そんな時「走る大工集団」として知られていた、新潟市西蒲区の重川材木店に大学の先輩が入社しました。重川材木店は、「陸上と仕事の両立」を求められる珍しい実業団。けれど、木部さんにとっては興味があった建築の仕事もできるということで、「ここしかない!」と思ったそうです。「監督を通じて、卒業したら重川材木店に行きたいですと伝えてもらったところ、翌日には社長が直接会いに来てくれました。そして、すぐに“来ていいぞ”と言ってもらえ、陸上部だけでなく、全くの未経験ながら設計部に配属してもらえることになりました」。
不思議なことに、またしても“先輩”に導かれた縁でした。
大学卒業した2015年3月に、新潟へと移り住んだ木部さん。「新潟には、雪と米というイメージしかなかったですね。3月に来た日がたまたま大雪でびっくりしました。“あぁ雪国に来たんだなぁ”と感慨深かったです」。家族に進路を伝えたのは、全て決まった後だったそう。「後から聞いた話ですが、母は私が大学も就職も実家から遠いところを選んだことを寂しがっていたようです。ただ昔から、自分で決めたことは変えないタイプだったので、何も言わず“がんばれ”と応援してくれました。ありがたいですし、がんばろうと思いました」。
重川材木店陸上競技部のメンバーは、出勤日は朝5時から朝練。その後、8時から15時までは通常勤務。16時から午後の練習があり、20時過ぎに帰宅し食事などをして就寝。休日は8時から12時までが練習時間でその後は自由時間。日曜日は大会などがなければ基本はオフ。一見大変そうだが「高校や大学のときも同じようなスケジュールでした。授業が仕事に変わっただけです」と、充実した日々を過ごしています。
入社した年には、実業団駅伝日本一を決めるニューイヤー駅伝に出場。「箱根駅伝と並ぶ正月の二大駅伝競走に出られ、小さな頃からの夢が叶いました」。2016年は残念ながらニューイヤー駅伝は予選会で敗退と悔しい思いをしました。チーム以外でも、県縦断駅伝に西蒲区の代表選手として出場予定。「区間賞を獲って、重川材木店陸上競技部があるぞ!とPRしたいです」と、チームの看板を背負って幅広く活躍しています。
陸上の一方、仕事でもチャレンジを続けています。「仕事は希望したとおり設計部に配属され、もともとやりたいと思っていた仕事に携わらせてもらっています」。ただ、高校は普通科で、大学では法学部スポーツシステムコースと、建築に関する知識はゼロだったと言う木部さん。最初は周りの皆が何を話しているかわからかったと言います。「社員のみなさんが本当に良くしてくれて、わからないことをイチから教えてくれました」。
学生の頃にイメージしていた設計の仕事は図面を描くことだけでしたが、実際には、お客さんとの打ち合わせはもちろん、役所への申請や、模型の作成、図面のデータ化、その他たくさんの事務仕事など、思った以上に幅広い仕事に驚いたそうです。また、先輩たちの仕事を見て「何でこんな発想ができるんだろう…。自分ができるようになるのだろうか…」と、驚き落ち込んだことも。しかし、「知らないから、できませんという言い訳はしたくなかった」という木部さん。陸上の練習後など時間を作り、コツコツと建築の知識を勉強しています。ようやく、少しずつわかることが増えてきたそうで、まずは二級建築士の資格を目指します。「建築に関する学歴のない私は、二級建築士を受験するには7年以上の実務経験が必要になります。まずは、目の前の仕事を頑張ること。その先に、いずれは一級建築士になりたいと思っています」。
今は陸上と仕事で目一杯で、なかなか新潟らしさに目を向ける機会がないという木部さんですが、「3年住んでみて、やっぱり寒いですね。ただ、夏が想像していたよりも暑く、他の県と比べても湿気がすごく、走るにはあまりいいコンディションではないですね(笑)けれど、のんびりできる環境は好きです」とのこと。
実業団では、30代前半には選手を辞めてしまう人が多いそう。けれど、木部さんは出来る限り、なるべく長く陸上を続けたいと考えています。「限界まで選手としてやっていきたい。それも仕事と陸上を両立させてくれる会社の方針があってこそです。もともと陸上で入社し、今は大工に専念している先輩がいるのも心強いです。これからもこの土地で走り続けていきたいと思います」。これからも夢の両立を、新潟で叶えていきます。
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