2022.10.06
湯沢町
自分の生活を豊かにするための工夫=ライフハックとして新潟にUIターンし、地方だからこそ実現できる暮らし・多様な働き方を楽しむ「にいがたライフハッカーズ」。
記念すべき1人目のにいがたライフハッカーは湯沢町在住、自らを「デジタル時代のビジネス傭兵」と謳い、「Office NoMad(オフィス ノマド)」名義でフリーランスとして活動する高橋 智計さん。
大手企業にてイベントプロデューサー、新潟の県職員、ITベンチャーの営業などさまざまな職種を経験、新潟へは2度Uターン、現在の自宅は50万円で購入した湯沢のリゾートマンション!?など、気になる部分しかない高橋さんのこれまでと現在、そして自ら「チート」だと語る湯沢での豊かな暮らしに迫ります。
1982年新潟県胎内市生まれ。湯沢町在住。大学進学を機に上京し、株式会社小学館プロダクション(現小学館集英社プロダクション)にてイベント企画・制作に10年間携わる。その後1度目のUターンをし、新潟県庁に入庁。産業立地課、広報広聴課を経験後、フラー株式会社に入社し、東京へリターン。2020年、コロナ禍でリモートワークが普及する中、新潟県湯沢町に移住。フリーランスとして独立し、2度目のUターンを果たす。現在は「Office NoMad」名義で活動中。
株式会社DERTA コミュニティマネージャー。群馬県前橋市出身。大学進学を機に新潟に移住。卒業後は地元の印刷会社に入社し、営業職を約2年ほど経験する。その後、同社にて新潟をもっと楽しむライフスタイルメディア「セナポン」を立ち上げ、ライター・編集者として活動する。2022年5月に株式会社DERTAに入社。起業家・クリエイターのコミュニティ運営やイベント企画、サービスデザインを軸としたプロジェクトマネジメント業務を行う。新潟の好きなところは「ほどよく都会で、ほどよく田舎なところ」。
オハナ
高橋さん、今日はよろしくお願いいたします!湯沢町、今日はすごい熱気ですね……!(取材日はフジロック2022の1日目でした。)駅前にも人がたくさんいましたよ。
高橋さん
そうでしょ?年に一度のお祭りだからね。僕も明日と明後日と行きます。
オハナ
最高ですね……!
では、さっそくお話を伺いたいと思います。高橋さん、生まれは新潟県胎内市なんですね。どんな少年時代だったんですか?
高橋さん
マイペースで、本が大好きな少年でした。小学校に上がるころには、大人が読むような小説を読んでいましたね。
初めて小学校の図書館で本を借りようというときに、みんな読みやすい児童書を借りていく中、僕は100ページ以上もある偉人の伝記物語を借りようとして、先生に「こんなの読めるわけないだろ!」と怒られたという思い出もあります。
オハナ
そんなエピソードが(笑)
その後も本好きが高じて、大学は早稲田大学の第一文学部文芸専修に入学されたんですよね。
高橋さん
そうです。ただ当時はファッションにも興味が強く、進学も本の道かファッションの道か、非常に悩んだんです。そこで、受験前に学校見学に行くことにしました。
まずは気になっていたファッションの専門学校へ見学に行ったのですが、入ってすぐの受付に良い香りの綺麗なお姉さんがいて。一瞬で「とても俺には合わなそう……!」って思いました。
オハナ
「行きたい!」って思うんじゃないんですね(笑)
高橋さん
はい、次に早稲田に行ったら古いベンチに学生が寝転んで本を読んでいて、「俺はこっちの方がいいな」って(笑)
オハナ
そもそも、絶対に東京には出たいという気持ちがあったんですか?
高橋さん
その気持ちはすごく強かったです。新潟の魅力に気づいていなかったし、東京でないとホンモノには触れられないって思っていましたから。
オハナ
その後、「小学館プロダクション(現:小学館集英社プロダクション)」に就職されたんですよね。
高橋さん
はい。大学で学んでいた分野としても編集者になりたいと思って、出版社を中心に受けていました。しかしまあ落ちる落ちる。
結果的に、小学館が出版している書籍の周辺ビジネスを手掛ける「小学館プロダクション」に入社することになります。
オハナ
そこではどんなお仕事をされていたのですか?
高橋さん
主に、子ども向けのおもちゃやゲームなどのイベント企画・制作をしていました。僕はプロデューサーとして、イベント全体のマネジメント業務を行っていました。
中でも思い出に残っているイベントは、小学館が発行する子ども向けコミック誌『コロコロコミック』のイベントを全国各地で開催した『コロツアー』です。
イベント後、各地方の夜の街に飲みに行き、その土地の文化を楽しむのも好きで。それが地方の魅力に気づくきっかけにもなりましたね。
オハナ
その後、10年勤めた小学館プロダクションを退職され、県庁の職員として、新潟に1回目のUターンをされますよね。
高橋さん
はい。転職のきっかけはかなり複合的なんですが、まず1つ目の理由は東日本大震災。
イベントでも訪れたことがある思い出深い地域が大変な状況になっていて、かなり衝撃的でした。なにか自分にできることはないかと、複数名の漫画家さんを連れて仮設住宅へ出張サイン会をしに行ったんですが、そのときの子どもたちの喜ぶ顔は今でも忘れられない思い出です。
地方に貢献したいと思う気持ちが大きくなった出来事でした。
オハナ
すばらしい……!
高橋さん
2つ目の理由は、10年間イベントだけをやり続けてしまった自分に危うさを感じたから。このままでは、自分はイベントのことしか知らない偏った人間になってしまうと思ったんです。
「これまでのキャリアを抜本的に見直すタイミングだな」と思いました。
オハナ
すごい一年だったんですね。
高橋さん
そんなとき、県の職員だった父親から「新潟県が県外で社会人経験を積んだ人材の中途採用をするそうだ」という話を聞き、「俺にぴったりじゃん!」と思ったんです。公務員試験に向けて、17教科を必死に勉強しました。
オハナ
そして見事合格したわけですね。県庁ではどんなお仕事をされていたのですか?
高橋さん
最初の配属先は「産業立地課」。県内外の企業に対して、新潟県への投資を促すために営業活動をするという部署でした。
ただ、正直仕事の裁量があまりなく単純な事務仕事が大半で、「こんなことするために新潟に来たんじゃない!」と、1年間くらいは腐ってましたね。
オハナ
そうだったんですね。
高橋さん
なので、すぐ東京に戻ろうかなと思っていたんですが、とあるきっかけで佐渡にはじめて行くことになったんですが、すごくおもしろくて。
その日は近くにあった宿にふらっと入ったんですが、「いきなり来たから今ある物しかないけど……」って言われて出てきた夕飯が、カニとかお刺身とか……(笑)。米も美味しいし、「何これ、最高じゃん」って思いましたね。
オハナ
たしかに、佐渡は大人になってから行くとすごくおもしろいなと思います。ひとつの島の中に、食文化、歴史、自然など、魅力的な資源がたくさん。それに、ただ観光するだけじゃなくて、地元の人と実際に触れ合うとその土地の良さがより感じられますよね。
高橋さん
そう。新潟県民にとって佐渡は修学旅行で行くもので、大人になってから行く機会はあまりないようなんです。でも、お酒が飲めるようになってから行く佐渡って、楽しさが段違いで。
こんな感じで、新潟に戻ってからは県内各地に行ったり、さまざまなイベントに参加したりと、積極的に行動しました。そこでたくさんの人と出会い、新潟の風土・食・歴史などの魅力に気づいて、新潟への思いはどんどん強くなっていきましたね。若い頃には分からなかった。
オハナ
その後、県庁に勤めて3年目で広報広聴課に異動になるのですよね。
高橋さん
はい。県外に向けて新潟の魅力をPRするために「新潟のつかいかた」というオウンドメディアを立ち上げ、取材などを通してさらなる新潟の魅力を知りました。
ただ、行政として動ける範囲に限界を感じてきたこと、また新たなチャレンジをしてみたいという気持ちが湧いてきたこと、また次の年に母が他界し、新潟に留まる理由が1つ無くなったことなどから、4年勤めた県庁を退職することを決めました。
オハナ
そうだったんですね。そこからフラー株式会社に入社されますが、どのようなきっかけがあったんですか?
高橋さん
小学館プロダクションと県庁を離脱することになり、僕は大組織に向いてないのかな?と思ったんです。
自由度の効く、少人数の会社で働いてみたい。また、一度は立ち上げ当初の会社で、組織を作る経験をしてみたいなと思いました。
そのとき思い浮かんだのが、県庁の産業立地課時代、新潟支社の設立にも携わったITベンチャーのフラー。転職するにあたって「東京に戻ってもいいかな」という気持ちはありましたが、いずれは新潟にと考えていたので、新潟にゆかりのある会社がよかったんです。
当時の新潟支社長に、「県庁を辞めるのですが、私を雇いませんか?」と直接アプローチしましたね(笑)
オハナ
直接!(笑)
そこから東京に再移住し、昔の人脈を生かして営業をされていたんですよね。
高橋さん
そう。でも、1年くらい働いたタイミングで新型コロナウイルスが流行りだして。家でリモートワークをしなくてはいけなくなりました。
そのとき住んでいたのは寝るために帰るだけだと思って借りた部屋だったので、狭いし、壁も薄くて隣の家の音も聞こえるし……。「こんなところで仕事できない!」と思って。
そのときちょうど「Go To トラベル」が実施されていたタイミングで、佐渡のコワーキングスペースや十日町の温泉など、新潟各地でワーケーションをしていました。
オハナ
リモートでどこでも働けるとなれば、東京の狭い部屋より、景色の良いところで仕事する方が気持ちが良いですよね。
高橋さん
はい。その流れで湯沢のコワーキングスペース「きら星BASE」に辿り着きます。オーナーの伊藤 綾さんと話す中で、「ところで湯沢のマンション買いません?50万円ですよ」と言われて、おもしろいじゃんと思ってしまいました(笑)
ちょうどフラーも大きな組織になってきて、自分が求めていたフェーズは終わったなと感じていたこともあり、退職を決めます。それが2020年の8月。9月にはマンションの内見をし、10月に契約、11月に湯沢に引っ越しました。
オハナ
2回のUターンには、このような経緯があったんですね。
オハナ
現在フリーランスとして活動されている高橋さんですが、お仕事内容はどのようなものでしょう。
高橋さん
10年間のイベント運営で培ったマーケティング思考や、文章に対する知識を武器に、主に企業や行政から戦略立案・企画、戦術策定・実行、広報、編集などの業務を請け負っています。ただ、必要であれば、チラシやバナーのデザインや、ライティングも行うこともあります。
任務遂行のために必要なことは全てやり切る、傭兵のような忠実なパートナーシップを築いていきたいと考えているので、自らを「デジタル時代のビジネス傭兵」と謳っています。
僕は自分がやりたいことを実現するよりも、誰かが持つ課題に寄り添い、解決のお手伝いをすることが好き。だから課題だらけの地方と僕って、非常に相性が良いんです(笑)
オハナ
なるほど!
高橋さんが新潟に来て、一番良かったなと思うことってなんですか?
高橋さん
一番は、家を安く手に入れられたことですかね。普通の人からしたら、家って多分人生の中で一番高い買い物になるはずで、ローンも長い年月払い続けなければいけない。
その制約があると、今の仕事に飽きたと思っても簡単には職場を変えられなかったり、趣味などの面でも諦めなければいけない部分が出てきたりすると思うんです。
それを、僕の場合はマンション代50万円+事務手数料+リノベーション代400万円の計500万円に抑えられたことで、趣味や新しいチャレンジに対して存分に投資できる。この自由さを得られたことは自分の中で大きいですね。
オハナ
たしかに、趣味を全力で楽しんでいる高橋さんは、本当に楽しそうに見えます。
高橋さん
今は車2台とバイク2台を所有しています。東京に住んでいたときは考えられなかったことですね。移動するにも自分の好きな車やバイクだとテンションが上がるし、毎日の充実度が変わりますよね。
最近買ったのが「ミニジープ」、50cc相当のEVで、一応車道も走れるんです。コワーキングスペースにいる子どもたちを乗せて庭を走ったらすごく喜んでくれました。
オハナ
若者が地方で就職しない理由として、行きたいと思える企業がない、希望する職種がないなどの意見がありますが、それについてはどう思いますか?
高橋さん
そうですね。行きたいところが見つからなかったら、一回外に出て力をつけることも手なんじゃないでしょうか。
しかし、今はリモートワークで東京の会社に所属したり、東京の会社の仕事を受託しながら地方に住むこともできます。お金の面でも、いくらでも工夫ができると思います。
オハナ
どういう人が新潟の暮らしに向いていると思いますか?
高橋さん
いろんなことをおもしろがれる人が良いと思いますね。自然しかないと思うのではなくて、自然があるじゃん!と思えるか。
あとはクリエイティビティを持っている人かな。自分で楽しいことを見つけられて、やりたいと思ったらすぐ行動できる人。
新潟に来て思うのは、おもしろいことをやっている人がまだ少ないし、県民性的にも目立ちたい人が多くないように感じるので、動けばすぐに目立てる。そして、そういう人は各所から求められるようになる。
東京で自分の実力を発揮できていないと思っている人がいたら、新潟では輝けるかもしれません。課題はいくらでもあるので(笑)地方はプレイヤーを求めています。
オハナ
ありがとうございます!最後に、これからUIターン移住を考えている人へ、一言お願いします!
高橋さん
お試し移住とかもあるし、まずは気軽に来てみたら良いんじゃないでしょうか。合わなければ帰ればいいし。我こそは!という方がいたら、連絡ください。相談ならいつでも付き合いますよ。ぜひいっしょに新潟で、おもしろいことやりましょう!
自らの生活をより豊かにするために、新潟で暮らすことを選んだ「にいがたライフハッカーズ」。そんな彼らの生活を彩る新潟のモノ・コト・ヒトについて、とっておきの「ニイガタライフハック」をお聞きしました。
新潟県民が夏に食べるものといえば枝豆ですが、高橋家では、先祖代々引き継がれてきた「ろくすけまめ」というオリジナルの品種を育てていました。夏になると、実家で山ほど食べていた思い出の味。甘みが濃く、品種改良されていない素朴な味ですごく美味しいです。
今は実家の農業を継げる人がいなくなったので、地元胎内市の新潟食料農業大学の「6次産業化クラブ」と手を組み、学生たちに「ろくすけまめ」を育てていただくことになりました。収穫時期は普通の枝豆よりも少し遅く、8月の後半。今年もこれを食べて、夏の終わりを感じましたね。
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